陽があたらなくても水に飢えてても咲きたいのかどうか

 

 

不自由であればあるほど実は人は能力を発揮する。でも、待ってー!、その前に大きな分かれ道がある。不自由を言い訳にするか、糧にするか??ここは真価が問われるよ??

 

昨日の記事(バレエのポジショニングから学ぶ、写真の『ベスト綺麗ポジション』で書いた、カラダに線を思い描く話。私はこの線を針のように細い鉄が刺さっているような意識があったりする。だから、バレエには制約があるんだ。秩序のある中で自分をひきだせた時の快感は半端なものじゃない。目に見える動きを越えて、想いが呼吸となって表れるとき、私は自分でも惚れ惚れとしてしまう。

 

場所や時間やお金を言い訳にしている人は一度味わってみたらいい。その制約を越えてでも、自由を勝ち取った自分を。

 

私は「でも、それでも」という言葉が好き。大人なら何かをやるかやらないか決めるときには、「リターン」「リスク」「条件」「メリット」「デメリット」を考えてから行動に移すよね?「でも、それでも」と言って決めたときは肚をくくったときだから。中途半端でなくて、その先の失敗や最悪の状況さえも甘んじて受け入れる覚悟をもったときに出る言葉だと思うんだ。言い訳はしないという覚悟。

「でも、それでも」と制約を越えていく生き方がバレエと共通していたのかもしれない。バレエは体操じゃないからね。秩序を保った正しさだけじゃダメなの。その先を魅せるからバレエがバレエたるものになり、芸術になる。

 

 

 

不自由な条件で言い訳してもってる能力を発揮できない人に欠けているものは、「考えること」。何がどう不自由で、その抜け道はあるのか。でも、それを考えないのは要は「考えてまでなんとしてでもやろう」とそこまで思ってないから。なのに、「やらない」という決断もしない。潔さって信用に直結すると思うんだよね。だって、自分にもだましだましウソついている人が他人の約束を守るとは思えない。その信用は自分への信用でもあるんだ。自信ってそういうこと。

 

ガチガチに制約のある中で踊るんだけども、その先にすごーくゆるくて温かい自由を魅せられる踊りがバレエなんだよね。でも、私はダンスのすべてが好きで、たまたま自分が一番とりくんだ期間が長く濃かったのがバレエだから人に教えられるのはバレエだけども…HIPHOPもいいよ!!あれはね、とにかく自由な踊りで逆に制約がなくて、その中に制約への憤りを表現して、同時に本当の自由をも表現するんだと私は思う。ルーツがそうだから。

 

「俺たちはこんなに自由に踊れるのに、何で社会はこんなに不自由なんだ!」っていうエネルギーの吐きどころなさから生まれたものだから。言い方を変えれば「社会は不自由だけれども、俺たちは本当の自由を知り踊れる」という喜びでもある。バレエは逆で、貴族の娯楽だから「何でもある、取り囲む世界は自由なのにこの心はどこか不自由」こちらも言い方を変えると「私たちは秩序の中で踊るけれど、本当の自由を知り踊れる」私の解釈だけど。

 

私たちは何をもとめ何をするんだろう??

踊るにあたり、ステップの決まりやスポットの付け方、音の取り方、本当に自由に与えられすぎて何をしていいかわからなくてとても不自由に感じてしまうのかな?すべてが自由なんだよ。だから踊れない。

 

先に「考えること」が足りないと私は言ったけれども、その前に何を求め何がしたくて何がしたくないのか、それはなぜ?っていう心の底から湧き上がる感情にフタをしてしまっていると、考える議題がまずあがってこないよね。その必要性もないし。自分の自由との戦いなのかもね。だから、私は制限や条件、リスクを喜んで引き受ける。それも私に与えられた大事な選択の要素だから。

 

そこを熟知した上で、私はそれでも越えていくと決められる情熱があるのかどうか、私は私を試しているんだと思う。

 

 

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