文句なしのいい一年だった

 

 

2015年。文句なしの幸せな一年をおくることができました。ムカつくらい、大瀧冬佳は充実しております。満たされすぎて新年の抱負なんか想い浮かびませぬ。きっと、抱負を掲げなくても私はやりたいようにやって夢を叶えられると思うし、たとえ叶わなくてもそれでも満たされ笑っていると思います。笑っていられればそれでいいんです。今、心からどうしても溢れてしまう笑顔でして、そんな日々をおくれていて幸せ者だなと実感します。

 

2015年1月1日、「彼氏をつくる」という目標をとりあえずたてました。そっからの私はそのことをすっかり忘れてもう自分に夢中な1年をかけぬけました。大胆にカードをきってきました。どこまで自分を信じられるのかなって。そしたら、みるみる世界がひらけて、どんどん自分が好きになっていきました。「彼氏」が欲しいなんて思ったことは実は一度もなく、この人といると楽しいと思って一緒にいることを選んでいたら、まぁ目標が今日、大晦日に達成されたようです(他人事)

 

これは、いろんなことを共有していく機会をいただけたということですね!わけあいっこできるんですね。今日のあたしは舞い上がって浮かれてます。大瀧冬佳ですから、小躍りどころか踊ってしまう始末です。

 

好きなことを仕事にし、好きな人たちが元気で側にいてくれて、これ以上私は何を望めばいいというのでしょうか。

 

 

しかし、こうなると思う!!と言うことを書いておこうと思います。

 

 

「心の隅っこで泣く人はいなくなる。心のど真ん中で笑える人にみんななる。」

 

そのために私はまず自分からそれをやったら私にもできたから。泣きたいときは誰かの心のまんなかに飛び込んで泣いたらいい。笑いたいときは自分のまわりの人の心のまんなかに響くように笑っちゃえ。

 

私はだから来年、それを伝えるために自分が好きなこと、好きな人、そして自分に変わらず真っ直ぐに向かおうと思います。

私の好きなことはダンス。私の好きな人はこのブログを読んでくださるみなさま。ごめんなさい、ウソつきました。好きな人はちょっと変態な優しいあの人です。でも、このブログを読んでくださる方にお会いしてみたいと思います。

 

同じ時代を生きれていること、出逢えたこと、大瀧冬佳はそんなひとつひとつの偶然でできています。有難いって当たり前すぎますね。あえて言う必要もないくらい有るのが難しい奇跡です。

でもそれでも、みなさま本当にありがとうございます。来年、もっともっと楽しい一年にいたしましょう!

 

 

 

忘れたいこと、忘れたくないことはなんですか?〜忘年会と新年の抱負って必要?〜

 

 

人は忘れる。たてた目標もイメージも。本当に成そうとする人間は、区切りなんかなくってもやりつづけるんだよ。やりたいことは忘れないくらい大好きだから。目標を立てる時間さえ作らず、やりながら、そこに向かって走りつづけている。

 

だって、本気でぶつかっていくと毎秒挫折。その瞬間に自分を奮い立たせてまた挑む。いらないよ、忘年会。忘年会なんてしなくても人はどうせ忘れ行く生き物。

 

あなたが本当に忘れていることは、こうしている今も新しい時を迎え、新しい自分になりつづけていると言うこと。

率先して忘れていきたいことは、人からうけた被害。そんなふうに被害者でずっといることはとてもアホなことですよ。人を傷付けたことがない人なんて誰一人としていないよ。自分は被害者だなんて思うなら何を傷付けられても奪われてもかまわない覚悟でずっと演じていればいい。

 

「大瀧冬佳」が踊っていると忘れさせる踊りを踊ること。「大瀧冬佳」が書いていると忘れさせるブログが書けるようになるのが目標。そんなとき、人は自分以外を忘れて心が動かされてるってときだと思うから。

 

 

 

ダンサーが思う、波にのるかどうかの選択に必要なこと

 

 

何かの波にのるには、ほどよい死の感覚と、生に委ねる感覚。でも、もっとやらかく言うと、「なせばなる」と「どうにでもなる」ってことだと思う。

 

10代の私はかたよっていた。人の恵まれた環境をうらやんで、ときには、胸ぐらつかんで「あたしと変われ!!」といってやりたいくらい苛ついていた。でも、それでは上手くいかなかった。攻め込みすぎて、周りも自分も見失ってしまってたし「ご縁」という感覚もなかった。

 

だって、その頃の私には許せなかった。命を費やしている感覚がこの人にはないのかと不思議だった。

 

そんな感じで無駄にエネルギーを使ってきて、わかったことは「がんばる」瞬間を静かな静寂のなかで見極めること。それまでは、身を委ねつづける。それが例え不服な環境だとしても、気持ちを乱すことなく待つ。今を悲観したり、過去を悔やんだり、人を羨んだり、目の前のチャンスにのるか迷ったり…そういうのに振り回されることなくただ今の自分を味わう。

 

選択の連続だよね。こっちに進むとどうなるか、あっちに進むと何があるのか?目の前に突然現れた選択肢だと思うだろうけれども、実はそうじゃない。ほんとうに小さな小さなあなたの選択の連続が今のワカレミチを生んでいる。道中、曖昧なまま進むのもまたいい。こどものように道草をくってみたら出逢える何かがあるかもしれない。

 

結局、私は何を掴むかに執着してきたけれども、自分が自分であるならば何を手にしても私はそれを美しいと想うのだろう。これがどういう結果を生むのか?を先に考えてしまっては踊れない。やっていくうちに手に入れるものが本物だと思う。選ぶ前から予測しようもないことってたくさんある。委ねて、けど向き合って、気がついたら何かを得ているもの。

 

成功や成果をめざしていては何も手に入らない。つまり失敗をおそれたり、とびこむことに躊躇するのってナンセンス。そんなものは自分の気持ち次第でいかようにもなる。

 

だから、本当はバレエを踊るとどうなるのかってあんまり言いたくない。感じ方は人それぞれだし、結果より過程をたのしんでもらいたい。感じる心と感覚を閉ざさないこと。そうすればあなたの選択は絶対に間違わない。何事も最良の決断をしたことになる。「なせばなる」「どうにでもなる」感じる心を大切に。

 

 


ぜひ、あなただけのバレエを味わいにきてください!

 

と、言っておきながらレッスン詳細のリンクへとぶとビックリしますよ(笑)

2016年1〜2月レッスンのご案内

 

バレエをはじめるのに、入り口もきっかけも動機もなんでもいい。いらっしゃってくれさえすれば楽しいというところまで絶対に連れていきます。来年の目標に舞台も考えております。

 

 

ふゆか、犬愛について語る〜100記事目〜

 

 

これで100こ目の記事です!私は今日までどの記事も結構な熱量で書いてきました。例えるなら、内蔵から絞り出すような感じで書いています。まぁ、毎日読んでたら胸やけしてくる方もいらっしゃるかと思うので

今回はライトに「犬かネコか」「私の犬愛」について書きたいと思います。

 

因みに私は犬が好き。現役を引退したら広い土地を買って、ゆっくり犬と老い支度をしたいものです。特に大型犬が好きです。

 

私が生まれてすぐは白猫と黒猫、「らん丸」と「じゃじゃ」というネコと一緒にそだち、犬はミニチュアダックスフンドのファミリー、お母さんが「らんちゃん」お父さんが「どんぺ」娘たちが「はるな」と「あきな」。そして、私が小学校一年生のとき捨て猫を拾ってきてしまいまして、三毛猫の「ミルク」という美人なネコがおりました。ただ、めっちゃ凶暴でした。気高くて、いつも澄ましているネコでした。でもミルクはツンデレなので、かわいいときもあるんですよね。

 

小学校4年生のときにバーニーズマウンテンドッグという大型犬を飼いました。名前は「ローズ」女の子です。本当に大好きだった。私がごはんをあげて、散歩につれてったり、うんこ片付けてたんですけどね。いっつもさ、うんこ片付けてると壁越しにそっと私を見てるんですよ、申し訳なさそうな顔して(笑)私が泣いていると、すごい勢いでなぐさめてくれるし、話をちゃんと聞いてくれる。自分を犬だと思っていなくてさ、私の真似をする。犬なのに笑うんだよね。寂しいって言うし、大好きだよ〜!!って体当たりしてくるし。一番の友だちで、妹って感じだった。

 

大型犬を飼うのはやっぱり大変。ある日、うんこが出ない日がつづいて心配してたの。私はうんこ係だからね、その辺しっかり体調管理は私の役目として頑張ってたから。で、ごはんも食べないし元気もないし。病院につれていこうかと話してた次の日、トイレに足が落ちてるの。完全に足。なにごと!?って感じで私は目を疑い、ローズはその日も影から様子をうかがってるわけ。よくみたら、うんこがギュッとつまった靴下でね。ローズからしても、なんか変なの出てきちゃったんだけど!?って様子見てたんでしょうね。ん〜食べちゃったんだよね、靴下。でもよかったよ、出てきて、ほんとホッとした。

 

まぁ、あと大きな事件は。家に帰ってきたらタタミが土になってたことね。土と言うか、なんだろう??タタミを掻きまくって掘り起こされてんの。なにかが!!!もう、びっくり!!どうしろと!?強制リフォーム。

 

それで、あんな大きな図体で、チワワにビビって私の後ろに隠れたりするのね。私の身長は140㎝体重およそ32㎏、ローズ47㎏、チワワ3㎏。ドブに落ちたり、間抜けな性格でした。

 

大型犬はいいよ。ネコとか犬見てると「うわわわああああああ!」っていう、どうしていいか分からない可愛い衝動を大型犬ならギューッて抱きついてもつぶれないし。わしゃわしゃ頭なでまわせるし、なんならお腹みせてきたら全身で愛を伝えられるからね(おっと、また愛の話をしてしまった笑)ムツゴロウさんか!ってくらいに。だってローズは45㎏とか余裕であるから、私と変わらないもんね。体当たりでいけるから!

 

もう〜、犬が大好きだよ。あの瞳が忘れられない。大好きだった。今も、ローズの首輪があたしの机の上に置いてある。写真と一緒に。ネコは可愛くないとかでは全然ないけれど、犬だ。犬が好きだ!

 

もうライトに書こうとするとこんな感じになっちゃうよ。

ふゆか、愛について語る

 

 

 

 

実は2ヶ月前に私の人生をひっくり返された。だから、あたしのやってきたことの意味って?目的って?って一気に失った。たかだか25年というまだまだ青い人生なのですが、あたしの動力は「怒り」と「愛されたい」で踏ん張ってきたようなもので。向上心や志とは一種異なった気迫というか鬼気迫るものに自分で自分を追いつめて、ハムスターのクルクル回る車輪の上を走らされてるような感じだった。

 

それが「はい、もう走る必要はなくなりました。」というか、なんで走ってたんだろう?っていう何もない空を見上げている気分です。これが涙がこぼれるような虚無感でなくてよかった。きっと歩みを止めたら私は無になるんじゃなかろうかとそれが何よりも怖かったんだけど、理屈抜きにわかっちゃったんだ。

 

「おまえなんか、生まれてこなきゃよかった」という胸にささった言葉に対して「じゃあ、なんで生んだんだよ!!」っていう怒り。ド直球に表現するとこんな感じだけども、実際は大人になるにつれ、もっと、まあるく胸に収まってたけれどね。そして、どうしても虐待をうけてて愛情なんか1ミリも感じられなかったから、私の中では最初からないものとして処理するしかなかった。そして、他者に親の愛を求めつづけた。

 

反骨精神、ハングリー精神、反面教師…そして、親に愛されたいという欲求。目を伏せてもきっと私の奥底にあったはず。それが、あるきっかけがあって、「あら、それでもあたしは愛されていた」と気付いたんだ。キレイ事を書いているように思うよね。私も自分でしばらく理解できなかった。こんなことがあってなるものかと反発した。でも、どうしても頑張る必要がなくなってるんだもん。これ以上もこれ以下も説明のしようがない。1万語の言葉でも説明がつかない。と、思う。

 

いっちばーーーーん、逃げてきたものからなんだか逃げる必要もなくなったし、それって恥ずかしいけど、言うけど、「愛」なんですけど(笑)逃げまくるくせに究極に求めてるものだったんだろうね。逃げるもんでも求めるもんでもなく、あるものだったんだな!って空を見上げて空だってわかるくらい当たり前に捉えられたんです。変な話でしょう??(笑)

 

じゃあ、こうしよう、ふゆかちゃんにとって「愛」とは?と聞かれたら「空」と答えます。

 

私はそんな風に人を自分を愛します。

好き、嫌い、恋とは違います。きっと、人は母の愛から始まって、神の愛に至るんでしょうか。神は自分自身。だから「愛する」というのはそれなりに技術が必要だと思います。技術というからには、習練がある。当たり前に母から愛され、自分を愛することにシフトできる人ってどれくらいいるんだろう?だから、みんな恋愛で悩むんでしょう??

肉体的、生理的、観念的にはじまった欲望を愛に育んでいくには技術が必要。欲望は生命の活力だからなくてはならないものなんだけど、それをゆっくり育てていくの。

 

それを私はやってみたい。そんなダンス踊れたら、私はそれ以上はもうないかもしれない。

 

 

人にはたらく慣性の法則〜動き出せないとき、立ち止まれなくなってしまったとき〜

 

 

何やってんだよ。傍若無人に一心不乱につきすすむのが、あんたのいいところだったじゃないか。なにをバランスくずしてるんだよ。だから、あんたといて面白いんだよ。次はどんな世界をみせてくれるんだろうってワクワクするんじゃないか。人の想像できることの中でその枠で応えようとしたら面白くも何ともない。そこを軽やかに越えていくのがあんたがあんただってことなんじゃないか。

あぁ、もうやめちまえ!そんなに嫌ならやめちゃった方がいい。あんたは気にしているんだろう?ここでやめたらどう思われるのか。いくじなし、根性なし、世間知らず、またかという失念…きっと言われたい放題になるのが容易に想像つく。次のことだって決まってない。でもさ、そんなところで牙磨いて何になる?所詮、檻に閉じ込められたまま。飼いならされて、嫌気がさして、日に日に弱気になっていく自分も嫌いになって。堂々巡り。そこでいかに上手くやるかって妥協案に精根使い果たすのも疲れたろうに。対処療法はその場しのぎにしかならなくて、ふとした瞬間に胸がうずく。その感情を何度胸の内で握りつぶしたか。でも、もうそんな環境からはあんたは脱している。ざわざわして、なんかちょっとでも上手くいかないことがあると、そこを格好の言い訳にして自分で逃げ道つくってる。分かってる。やめた方が良い。

 

わたしはわたし、そのまま受け止めてくれるか、さもなければほっといて!

 

じゃないと、生きているだけで楽しいってことを忘れてしまいそうになるでしょ?いい日はいくらでもあるけれど、死ぬその日にいい人生だったと思えるかはわからない。一日、一日を妥協するのはなんてことないかもしれない。だって明日はやってくるから。でも人生を妥協していいの?次の人生なんてあるの?私はそんなの嫌だ。人は思うよりもあっけなく死んでいく。今しかないんだから、ほんとクズだと思われてもやめてしまえ。

 

仕方ない、そんな何でもかんでも上手くいったら面白くないじゃないか。這ってでも、縫ってでも、行ってみたいんでしょ?人間くさく泥臭く、そのハングリーなあなたが私は好き。失敗が予測できてもそれでも挑んでみたり、大事なもの以外平気で捨てられちゃうバカなあなたが私は好き。早く戻ってきて、あなたに。あなただって、戻れなくなってどうしていいか分からなくなって苦しんでいるのかもしれないけれど、私はここでいつだってあなたを見ている。大丈夫、あなたはそうしていつもやってこれたから。

 

思い出して。あなたは3日寝ずに働きつづけてた。帰ってきて家の中まで辿り着けずに、そのまま玄関で3時間寝て次の仕事に向かっていた日々。ある日、祖母が「光熱費払え!」とヒステリーをおこして包丁やイスを持ち出してきたよね。でもあなたは動じず部屋に向かって歩きだし寝た。部屋の外では喚く祖母。部屋の扉に向かって投げつけられる包丁や皿の割れる音、バリバリと響く何かが壊れる音。

 

その行動の裏には

「ふーちゃんは偉い!私の孫だから。」-違う。

「私は私。誰のものでもなく私は私。」

 

そうやって、私の人生を自分のものとして生きないでください。私が頑張れば頑張った分だけ、自分の足で立たなくなる人たち。だから、私がそれに応えられなくなると自分のこと以上に全部を私に責め立ててくる。

 

思い出した?人のために頑張るのはやめなくちゃ。自分のこと以外どうでもいいのに、いい顔するのはやめなさい。ダンスだって、子供だって本当は興味がない。なくなっても私が私でなくなるものではない。だから、いつまでも大事で心の中に置いておける。私からも向こうからも求めず、執着せず。本当に心地がいい。

 

あなたの周りはだんだんそんな人やものが増えてきた。だから戸惑っているだけ。高低差が激しくて耳がキーンなってるだけよ。いい?ここで怖じ気づいちゃだめだよ。人は現状に満足して変化を好まない。もともと満足する機能が搭載されているから。新しいものに抵抗し反発するようにできている。つまり、変化することより現状に満足していると思い込むことの方が簡単なんだよね。でも、そこを乗り越えていくと何が見えるかをあなたは本当は知っている。

 

『止まっているものは止まりつづけ、動いているものは動きつづける』

この法則を理解し、自分のものとしてコントロールするとあなたの人生にコントラストが生まれる。彩り、体温、息づかいそんなモノが感じられる生き様って素敵だと思いませんか?

 


【レッスン情報】

「10年ぶりのストレッチ」「はじめてのバレエ」

来年のレッスン日、詳細はこちら

 

Facebookお友達申請どうぞ!→大瀧冬佳

(こっそりフォローしてくださる方がいらっしゃるんですけど、申請待ってます)

 

 

クリスマスを大切な人とすごせる幸せ♡

 

今ある幸せを噛み締める今日この頃です。

今日はクリスマスイブです。

 

大人になるまでクリスマスにいい思い出がひとつもありませんでした。毎年最悪な日でした。だれかの誕生日とクリスマス、家族でケーキを囲む日は決まって両親がケンカしていました。特別な日をキラキラと演出しようと、飾ろうとするのがかえってなんとも不気味な音楽に、異様な雰囲気に感じてなりませんでした。

 

元旦那と出逢ってから、素敵なクリスマスをささやかに祝うのが毎年楽しみになりました。お金がなくてもあなたがいてくれるだけで幸せなんだよと言うことが最後まで伝わらなかったのが残念です。いいの、別にケーキ食べなくても。プレゼントなんかなくても。

 

クリスマスや誕生日は特別な日なんかじゃないです。あんたがいてくれることをお互い再認識する日です。こうして今日も一緒にいられることに感謝する日です。当たり前の日常に少しのスパイスを感じる日。

 

子供とクリスマスを過ごせることはとても幸せです。

 

さて、みなさまも大切な人とよいクリスマスイブをおすごしください!

 


 

クリスマスと言えば「くるみ割り人形」

私は小学校6年生のときのバレエの発表会でクララという少女の役をやらせていただきました。今もこの曲をきくとその頃の記憶がよみがえります^^

 

チャイコフスキー「花のワルツ」もくるみ割り人形にでてきます。これはバレエを知らない方も聞いたことがあるでしょう!

 

 

恐らく「葦笛の踊り」も聴いたことがあるはず!

 

そして、こんぺいとうの踊り

 

くるみ割り人形は、ディズニーのファンタジアに使われてる曲が多いから聴いたことあるものばかりです!

 

それでは〜

社会で生きる生きづらさの実態〜恩送りインパクトをおこせ!〜

 

 

こんな記事を見つけた「恩送りができる人の脳が示す未来

 

この記事によれば、見返りを求めてよい行いをする「評判型」と児童養護施設にだまってお金をおいていくタイガーマスクや、あしながおじさんみたいな人を「恩送り型」としているようだ。そして「評判型」と「恩送り型」とでは脳が活性している部位が違うそうだ。

 

「評判型」…推測したり、損得をかんがえる場所が活性化している

「恩送り型」…他者への感情的な共感にかかわる場所が活性化している

 

この記事にも書いてあることだけれど、私は「恩送り」って人の間を伝染していくと思う。

 

私はほとんど人様の力で生かさせてもらってきた。お米や野菜を送ってもらったり、お金を送ってもらったり、家具家電、こどもの服もほとんどもらったもの。モノだけじゃなくて、「ウチを実家だと思っていつでも帰ってきなさい」と言ってくれる人が何人もいる。旅行も「たまには息抜きしなくちゃ」と連れていってくれる人がいる。無名で100万円くれた人もいる。私が自活していけるように仕事のチャンスをくれた人もいる。家事を手伝いにきてくれる人もいる。子供をみててくれる人もいる。

私、こういうの本当に何と言っていいかわからないくらい、なんか申し訳なくて、いつ恩返しできるとも知らない私に…ってとても心苦しかった。で、決まってこの人たちはこう言うんだ。「上から受けた恩を下に返しているだけだから、ふゆかはふゆかの力がついたときに下へ返せばいいの」胸がギューっとなって、今も目頭が熱くなってしまう。

 

17の時、本当にお金がなくて食べるものがなくて成田の駅前で「お金ください」って道行く人にお願いしたことがある。その人は私をみて財布に入ってるお札全部くれた。3万円。その人にとって二度とかえってこないお金。その人に今、会えるなら、お礼を言いたい。あのとき、あっけにとられてお礼のひとつも言えなかった。その人は私の手にギュッとお札をにぎらせ、足早に人の波の中に消えていってしまった。

 

あんなに温かい心にふれて私は救われた。こんな世知辛い世の中で肩肘はって気をはって、怒りを燃料になんとか自分を奮い立たせて生きていたもんで、こんなに温かいものなのか?と心がジュワッと溶けた気がした。

 

数えきれないたくさんの恩を私はうけてきたから、私もそうする。そこにはもちろん利害も、損得も思考にあがってくることはない。なぜかはわからないけれど。だって、そうじゃんとしか言えない。考えるというより、感じたままに。どうして、見返りなんてとても望めない私に恩をくれたの?その気持ちを感じてしまった限り、考えてもそれをしないというところ行き着かない。

 

先にあげた記事では、そんなループをくりかえす人々が数的に優位になれば社会にインパクトが起こると言っている。私はこの事実を今の今まで一人か二人にしか話したことがないけれども、ここに書こうと思ったのはこの記事に賛同したから。

 

 

きっと、大きな組織に属すれば属するほど「恩送り型」でいるのは痛みを伴う。本当は人は「恩送り型」を望んでいるけれども、自分→家庭→仲間→会社→社会とコミュニティが大きくなるほどに「評判型」な思考になっていくしかなくなるんだ。人を価値としてはかるから。どうしても生産性として人が勘定されそこで結果をださないと自分の価値がなくなると錯覚させられていく。

 

だから、それでも「恩送り」をしてくれた人を本当にかっこいいと思った。社長さんなのだけれども、たぶん彼の会社は部下から共感を得て「恩」が伝染している会社なのだと思う。

 

自分で自分を他者ありきでしか価値を見いだせないのではなく、小さなコミュニティから少しずつ自分を取り戻していけたらいいのではないかなと私は思う。

 

 


 

ありのままの自分の価値をみつけるヒントはダンスだったからね、もしよかったらレッスンに来てください!!

1月2月のレッスン情報

 


アートセラピー ブログランキングへ

長所が短所になってませんか?〜今年の漢字は「伝」〜

 

 

「伝わらなければないに等しい」

 

私が今年一番、度肝をぬかれ価値観をがらりと変えられた言葉。私の今年の漢字はきっと「伝」だろうな。あらためて「伝える」について調べてみたところ…「伝」という字のつくり(ニンベンの隣のヤツね)は、雲から来ているようだ。人の間を雲のようにたなびいて進む様。

 

専門性に特化したものをもっている人にありがちな、「極めすぎたおかげで妥協できなくなる」「にわかを認められない」ということ、その専門的なスキルをもってして自分がどこに向かいたいのかを今一度考えたい。それは独りよがりになっていないか。

 

健康、美容、ダイエット業界は特にいろんな情報が交錯し、どこもかしこも誘惑の言葉であふれている。だから、溢れかえる情報の真偽を声高に叫びつづける人もいて、受け手は尚のことアタマがこんがらがる。そして、そういう方々はジャッジにばかり視点がいき、伝わるかどうかは二の次、やれ「なんとかのなんとかが〜」「なんやかんやで〜」ととにかく(少なくとも私のアタマには入ってこない)難しい言葉でとうとうと語られる。

 

多くの人は興味のないことにはその真相とか深淵にある真実なんてどうだっていい。例え、それが何よりもその人にとっていいことが起こるとしても興味をもって受け取ってもらわなければ、何もなかったのと同じこと。

 

伝え方が雲でなく氷のような物体だったら邪魔だよね。人の行く道を遮り、避けなければならない。まず、発信することが大事だけど、それはそれで見向きもされない訳だから、伝わらない。

 

 

だから、私は自分の専門的なスキルがあるからこそ、目の前のあなたに一番分かりやすい形で伝えていきたい。それがもし、ちょっとばかり自分の意に反する言い方だとしても、私は今、自己満でレッスンをしている訳ではないから。形を雲のようにフワッとしたものにも変えようと思う。そして、ちゃんとその先に私が本当に伝えたい真実に辿り着けるように進んでいきたい。

 


あなたがどれだけ崇高な技術や知識、経験をもっていても、それは本当に伝わっているのかな??宝の持ち腐れになっていないかな??表現の幅を広げるという意味で、私はとてもいい学びをさせてもらっている。深いところまで掘り下げてきた経験がまたもうひとつ花を咲かせるかのように豊かなものに変わってきている。職人気質、◯◯オタク、◯◯専門家に当てはまる人は、またそういった観点からも厚みが増すこともあるのだと思ってみれば、こだわりから一歩先に進み豊かになるんではないのかな〜??

 

大瀧冬佳のレッスンが気になる方はこちら→2016/1,2のレッスンのご案内

 

ここ↓クリックしてもらうと、このBlogがよりたくさんの方の目にふれる機会が増えますんでクリックよろしくお願いします!

アートセラピー ブログランキングへ