自分の気持ちに正直に

 

 

2015年10月25日

かさこさんが

上っ面のキレイ事ではなく自己開示した本音ブログだから人は心を動かされる

という記事で私の事を紹介してくれた。

(あ、かさこさんは昨日41才のお誕生日でした。)

 

その記事の中で

ゆるふわアメブロ系ブログに多いが
キレイ事ばっかり書いてあって
無理してポジティブなふりして
ホントは不平や不満あるだろうに
そうしたことを隠して
誰でもいいからお仕事ちょうだい
ってのがみえみえなお仕事ブログって
良さそうにみえて実は全然ダメ。

だからいつまでたっても
仕事じゃなくおままごとなんだろうし
知り合いの友達ばかりが客で
お友達価格から抜け出せず
いつまでたっても仕事にならない。

誰かに嫌われるかもしれない。
こんなこと書いたらひかれるかもしれない。
でも私がこの活動をしているのは
こんな過去があったからだと
正直に告白し
アホみたいに無理した
ポジティブ記事じゃなく
正直に自分の本音を書く。

そういう人だからこそ
「この人から習いたい!」
と選ばれることになる。

 

と書かれている。

頭では分かる人多いと思う。

でも、所詮は希望的観測じゃないのか。

だからやった人でないと

かさこさんの伝えたいことが伝わっているかは未知数

 

「この人から習いたい!」

そんな風に思ってもらえる日がくるのだろうか?

 

みんなそんな不安を抱えて

つい価格競争をしてしまう

いいことばっかり書いてしまう

 

こわいから。

 

でも怖さなんて越えてしまうくらい

私には伝えたいものがある

私にしか伝えられないものがある

 

そして10月のレッスン初開催のとき

実は2週間前まで参加者は0だった

でも不思議と焦りはなかった

(その日のクラス最終的には満員でした)

 

たった一人でもきてくれたら

その人のために全力でレッスンをするし

いなかったら自分のレッスンができる

 

今、3月のレッスンスケジュールをだしていない

なのにもかかわらず

すでにたくさんのお申込みと問い合わせをいただいている

 

かさこさんの言っていることは本当だった

 

私が「好きを仕事に!」と決めたのは

全くもってポジティブな理由ではない

「好きを仕事に!」ってなんて甘い言葉だろうと思います?

素敵に思いますか???

現実にこれでもかと向き合い

そして最高のロマンを描いていくんですよ?

 

私はどうしても二人の子供をこの手で育て上げたい

二人は一度、児童養護施設に預けられたことがある

私が膝の皿を粉砕骨折して育児どころではなくなったからだ

 

そのとき思った

二人を守りたいと。

 

二人を守るには私が稼げる最大のお金と

私が作れる最長の時間がどうしてもほしい

だから私の持つ最高のパフォーマンスで

しかも継続していける仕事をする必要がある

 

・とにかく長く続けられること

・いいときも悪いときも左右されないこと

・結果がでるまで突き進めること

・私にしかできないこと

 

これが二人を守るための職選びの必須条件だと思った。

そしたらダンスしか残らなかったんだ

 

だから好きって本気で言えるのか?

何があってもどんなときもできる「好き」なのか?

そこだけはとことん自分に問いつづけた。

 

これから一人で育てていくには

きっといろいろあるはずだ

だからこそ揺るぎない柱が必要

 

好きを仕事に、

動き出せば実際苦労とかはないんだけども

自分の好きに妥協せず選び決められるかが肝

選ぶと言うと何かを足すことに感じるけど

実際には、削ぎ落とす作業のみだった

 

欲、こだわり、見栄、念、打算、効率の良さ

そんなものを削り落としてそれでも残る選択なのか

私は踊って生きていく踊って子供を守る

と決めるまで5年かかった

 

同じところをぐるぐるぐるぐる回って

でもやっぱりダンスに帰結する

でもやっぱり違うんじゃないか?

グチャグチャとそんなことをして

パンパンに膨れ上がった想いが爆発して

気付いたらもう動き出していたんだよね

 

そのとき出逢ったブログがかさこさんのブログでした

かさこさんのブログがきっかけではなかったけど

かさこさんは優しい小児科医みたいな顔して

火のついた私にどんどん燃料をくべました

 

私が何か大きな成功をしたら

成功報酬を搾取するようです。

ああ!いいとも、くれてやる!!

できることなら大瀧冬佳ブランドが確立して

私とタイアップでかさこさんとイベントができたらいい

私がかさこさんの名をさらに轟かすお手伝いをすること

それでお礼と恩を返す日がくるようにと願います。

 

 

かさこさん

お誕生日、ブログ開設記念おめでとうございます。

次の閏年には一緒にイベントをやりましょう!

その年、私は30才です。うわぁぁぁあああああーーー!

器量のよい人

 

 

人生はクローズアップで見れば悲劇だが

ロングショットで見れば喜劇だ

 

喜劇王チャップリンのこの言葉を

閉鎖病棟に隔離入院したときに知った

 

私はそれまで

「ドン底まで落ちたら後は上がるだけ、

これ以上は落ちることはない」

という言葉を信じていて

絶望を感じたことはなかった

 

でも、よくこんな無責任なことを言った人がいたもんだ

どこまでも落ちる。

現実ははるかに残酷で

ここがドン底と思っていたところから

さらに容赦なく突き落とされる。

今度こそは!…いやいやまだ落ちる。

 

そこで、思った。

ウソじゃん!!!!って。

ふざけんなよ!って。

 

私は17で世界最高峰のバレエ団に選ばれた

そこは物心ついたときからずっと夢みた場所

死ぬ気で頑張っても死なないとかって言うけど

それもウソだから。

死ぬ気でやると本当に死ぬ。

それくらい本気で死にかけながらも目指してきた場所

 

私は18で精神科の閉鎖病棟で一生を終える選択肢しかなくなった

親も友達も誰ひとり面会になんて来ない

鍵のかけられた太い鉄格子の窓からしか外を見ることはできない

半永久に、外には出られない

 

いや、絶望だろ!夢は?未来は?希望は?

私は多重人格により閉鎖病棟に入ったので

意識の上ではふだんの私と何一つ変わらない

無意識下で私ではない人格の持ち主が私の体をのっとる

だから、世界中の全員に騙されているんじゃないか

私のどこが病気なのかさっぱり自覚のない病気

 

そんな時に私を支えた言葉がチャップリンの言葉だった

 

 

今、この瞬間を切り取れば悲劇以外の何ものでもない

「そんなに不満があるなら変われよ、私と」

って世界中のバカの胸ぐら掴んで言ってやりたかった。

でも、ほんと、

そんなこと思っていてもだからなんなの?な訳で

誰も私をここから救いあげてはくれない

夢みた、誰かが私の手をグッと上にひっぱり

抱きかかえここから連れ出してくれることを。

 

知ってる?その誰かって言うのは

他でもない自分自身なんだよ

 

 

絶望だと思ってもロングショットで見るんだよ

そして人は上手いことできていて

どんな環境の違いをもつ人同士でも

人生の悲劇と喜劇の感じ方の割合は一定なのだそうだ

貧困と暴力の中で育った子供も、

裕福で才能に恵まれた環境で育った子供も

悲劇と喜劇は3:7で記憶されている

 

発想の転換

視点の切り替え

ここに意識を向ける

 

辛いときってその1点にクローズアップしてしまいがち

そこに居続けたいならいればいい

でも救い上げてほしいならば

想像をふくらますんだ

行動を伴う想像をくり返すの

 

そうすれば道は切り開かれていくよ

 

今はもう悲劇だろうが喜劇だろうが

いかにユーモアを見いだせるかにしか興味がない

悲劇がやってくると笑いに変えるスキルが試されているようでワクワクする。

こんな悲劇を笑い飛ばせるから私の喜劇が際立つんだ。

 

 

そんなユーモアの厚みのある人が好きです。

どうせ3:7なんだから

どんな悲しみも悦びも恐れるな!!!

どんどん大きく濃い人間になろう!

それが人の器の意味だと私は思う。

人生はエンターテイメント。

 

死があるから命が輝くと言われましても、死んだ人は生き返らない二度と会えないやっぱりもう一度会いたいのです。

 

 

あぁなんて楽しいんだろう

踊るって本当に楽しい

 

心が胸の真ん中にあるとしたら

体を流れて

手の指先、足の指先

その先へ風が巻き起こり

花が咲き光に包まれる

 

音にのってどこまでも

あなたの胸へ

 

涙がでそうな程の踊る悦びが

胸いっぱい伝わりますよう

ママ、あたしを見てますか?

あたし踊っているよ。

 

もう、本当は二度と会えないのかもしれない

でもそれでも信じたい

ママは今でもあたしのことを見ているって

 

時々、ふわっと懐かしい香のする風に包まれる

そして私は勇気をもらう

 

何才になってもあたしはずっとママの娘なんだな〜

なんだか時々こんな風に

どうしようもなく子供にかえりたくなる

 

死んでほしくなかったなぁ

何年経ってもその想いは変わらないなぁ

 

私はそんな儚い命を

今を生きていて大切な人が生きている悦びを

3/12の踊りに込めようと今日思いました

 

観にきてくださると嬉しいです。

3/12「キセキ×キセキ」のご案内

 

私じゃなくて誰がやる、今じゃなくていつやるの?

かさこさんの今日のブログ

を読んでね、

 

あぁ、やっぱりあたし、

かさこさんのことが大好きだなぁと思った。

こーゆう考え方をする大人に

ティーンエイジャーのときに

触れられたらとても素敵な世の中になると思う。

 

いい学校にはいれ!

いい大学にはいれ!

いい会社にはいれ!

でも、だからなんなんだよ?

 

中学生のあたしは

本当にそれが疑問だった。

 

なんのために生まれてきたの?

ばあさんになってからの安定のために

若いうちはコツコツと努力して

苦労をして耐えて我慢してって

生まれてきた喜びを感じれぬまま

楽しみを先延ばしにする意味がわからなかった

 

先生と口論をしたのだけど

先生は教えてくれなかった

 

私は子供にそれが教えられる大人でありたい

でも、まだ本気で体感してないんだよね

ほんとにほんとに大好きなことは

舞台で踊ってみんなを感動させること

そして舞台ってものすごーくたくさんの人が関わるんだけど

みんなが一丸となって

舞台の成功を願って

みんなで作るんだよね

その過程がたまらなくワクワクする

 

だから願うのは

ずっとずっーと作りつづけて踊り続けていたい

 

心の底から楽しいことワクワクすること好きなこと

やっぱりそんな日々をおくる。

 

そんなこと無理だ!無駄だ!

って負け惜しみみたいに子供に囁く大人が

たくさんいる中で

かさこさんはとてもかっこいい。

 

だって体現してるから。

結果を出して過程を楽しんでる人が一番。

 

何はともあれそこなんだよ。

しのごの言わずにそこ一本筋通す。

楽しむ、今を楽しむ!

 

好きなこともね、

あたしはこう思うんだ。

ただ好きなだけじゃなくて

「あたしじゃなくて誰がやる?」

「今じゃなくていつやるの?」

って肚の中にいるあたしが問いかける。

やらない理由がもはやない。

 

時々、弱気になるけれども

かさこさんのブログ読んだら消し飛んだ。

 

あたし、まだまだやれる、いける、どこまでも!

 

人と比べることから逃げる人は自分からも逃げる人

 

 

あいつには負けたくないなーって言う人はいないだろうか?

昨今、

「人と比べない」

「自分軸!ありのままの自分!」

論調をよく耳にするけれど

果たしてほんとにあなたはそんなに聖人君子なの?

 

それはただの逃げではない?

べつに逃げちゃダメとか言わないけど

なんか、逃げてるだけなのに

新進気鋭のアイディアにのっかって

そんな弱い自分を代弁してもらって

隠れているのはちょっとかっこ悪い。

 

でも、私も最近、少し誤解していた。

自分に向き合い

そして人とも比べて自分を奮い立たせる

人と比べることは大事だと思っていたが

私の場合、

それは半分架空か!ってくらい雲の上の人物か

伝説の人物だったり

やっぱり身近な人のことなんて

どうにも興味をもてず比べたことなかった。

 

すると、何が起きたか!

自分を見失うのである。

驚愕の事実に先日ひとり落ち込んだ笑

 

どういうことかと言うと

自分とまわりとの温度差を

あまりにハッキリと体感してしまった

 

なるべく、きれいな世界で生きていたい

人より自分が優れていると奢りたくない

という感情がもはや奢っていた。

 

この間のブログがたくさんの人の目に触れ

共感と賛辞をうけた

だけども何度読み返しても

ごはんのとき「いただきます」という

程度のふつうのことしか書いていない

 

また、人と意見交換をする機会があり

やっぱりなんだか「平凡」という感想を

どうしても胸の内に抱えてしまい

そんな上から目線の自分を抹殺したくなった

意見に正しいも間違ってるもなく

自分が正しいと言いたいわけじゃない

 

だけど、あのスゴイと思ってた人とも

温度差を感じて残念に思ってしまった

というか、そんなどうかしてる思考の自分を

まるで分かってなかった

ということにガッカリして落ち込んだ

 

人と比べるのはエネルギーがいる

嫌な自分を感じてしまうから

見下すという感情から逃げつづけて

そして自分を知る機会から遠ざかってきたみたい

 

そういうちょっと

意地汚い自分を感じる、

知ることも大事だと思った

 

そういうのって

とてつもなく人の弱い部分。

 

人と比べない、人と比べない!

は自分の弱さから逃げることでもあるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

舞台にかける想い〜3/12寶船単独劇場公演「キセキ×キセキ」〜

 

 

自分だけは違うとポッーと

このブログを開いたあなた。

 

そう!あなたも、あなたも!

そこのあなたに私は訴えている。

 

自分は部外者だと思わず、

私の想いを受けとってー。

 

舞台を観にきてくれるあなたがいて

はじめて私は演者として舞台にたてる

その感謝の気持ちを演者は

言葉で表現しちゃいけないと

私は思う。

 

公演のチケットを購入していただき

その日が来るまでワクワク感を与える義務

期待以上のパフォーマンスを提供する義務

舞台の余韻にしたらせる義務

それが私たち演者の感謝の表し方だと思う

 

私はあなたを欺きたい。

想像を超えるもの見せたい。

高揚感を味わって欲しい。

 

それには舞台上では一切の妥協もできない

常に、常に自分を越えていく

一音、一音に魂を込める

 

キレイにまとまっただけの

パフォーマンスをすることは実は簡単で

それでも結構みんな優しくて

「よかったね」という感想をくれる

私はこれではこの舞台は失敗だったなと

悔しさで泣いて嘔吐したことがある。

 

私が今まで観た中で一番すごかった舞台は

黙って座って観ていられない興奮の中に

引きずり込まれる舞台だった

 

観客が観客としていられない高揚感、歓喜

ステージと観客が一体になる不思議な空間

 

幕が降りても、

ここがどこで自分が誰なのか分からない

次元を越えていたかのようなフワフワとした感覚

 

そのまどろみの中で、

しばらく1週間くらいは生きることになる

 

そんな舞台は劇薬だよね

まるで身を焦がすような恋

そして自分がそんな舞台の演者だった場合

あの観客の息をのむ瞬間が聞こえるような空気は

麻薬であり、私はずっと舞台中毒者である

 

寶船ならきっとそんな舞台を魅せてくれる

私も微力ながら自分の限界に挑戦する

 

だから、あなたに観にきて欲しい。

そんな舞台を観ることで何が変わると思う?

人は言葉、名声、栄光で動くんじゃない

ハートやストーリーに感動したとき

人は動き出すのだと私は思う。

むしろ、

こんなにテクノロジーや文明が進歩しても

そこは遥か昔から未来永劫

変わらないんではないかと思う。

 

些細な日常で

ひとつずつは些細なことだから

それが大人だからと妥協し我慢し

でも、我慢に足るようなことでもないから

少しずつ自分をあきらめて過ごしてきたと思う

 

それで、叶う平和もあるし

それは悲しいことではないけれども

でも、だんだんとあきらめ癖や負け癖が

板についてきてしまって

本当の望みさえ指の隙間から落ち

すくいとれなくなっていく

 

言いようもない生きづらさを

蓄積させていっている

そんな殻を破ろうと消費に走り

さらなる虚しさを手にする

 

それを救うのは

「芸術」「文化」「伝統芸能」であると思う。

 

 

寶船は勇ましい。

自分に妥協するような人は一人もいない

そして何より自分の人生を両手いっぱい楽しんでいる

伝統を守りながら攻める彼らがとてもかっこいい

真剣な眼差しで夢を語り、

まっすぐに突き進んでいく姿に勇気をもらう

 

私も自分の目指す場所に向かって

階段を一段ずつ昇る過程にある

そこには幾多の困難ものりこえられない壁も

やっぱり人並み以上にあって

平坦な道のりでは決してない

道無き道をただひたすらに突き進むのみ

何がどうあれ諦めずに

果敢に挑みつづけているところだ

 

私なら成功しきった人よりも

そんな人から勇気と力をもらう

 

 

 

 

寶船は本場徳島の阿波踊りという伝統芸能を

その日本の文化の可能性に果敢に挑んでいる

まるで日本のHIPHOP。

根底に流れる情熱はHIPHOPに近いと私は感じる

 

大衆の中で発展した文化と対照的に

バレエは貴族を楽しませる伝統舞踊。

 

そして、私は今度の公演でバレエを踊る

思うのはこれだけ違う踊りも

時代や文化、環境、背景を悠に越えて一体となる

 

最初に言ったように

人の本能レベルで人を動かす力は

ハートやストーリーだから

私たちのハートが全てを

成功に導くだろうと信じている。

 

 

内から溢れる情熱だったり

若さや勢いは私たちの舞台でしか体感できない。

 

しのごの言えない

魂にダイレクトに訴えかけられる体験を。

 

 

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踊れ!踊らされるな!

 

 

何でもいいんだけど

 

例えばダンスレッスン。

 

あなたが踊りにきた

先生が踊らせてくれる訳じゃない

 

例えばなんとかセミナー。

 

あなたが学びにきた

講師が学ぶべきものをお膳立てしてくれる訳じゃない

 

 

踊れよ、踊らされるなよ!って

私は生徒の立場からも講師の立場からも思っている

 

私がダンススタジオを選ぶとき

自分のレベルにあわせた選び方はしない

ひとりでも踊らされてる人間がいるスタジオには行かない

意欲にあふれた空気のあるスタジオに行きたい

私か私以上に踊ることが好きなひとの中で学びたい

 

 

ちゃらちゃらした人間が大嫌い。

自分で足を運んでいるくせに

赤ん坊のように受け身でいる人

 

私はレッスンの90分間

目を皿のようにして講師からも生徒からも盗む

毛穴から吸収するくらい感覚を研ぎ澄ませて集中する

 

そこでチャラチャラ「できない〜笑」

とか言ってる人を感じた瞬間

殺意が湧く

 

それと同様に私は生きることにも全力だ

そんな姿勢を茶化してくる人間には

あなたが私よりいかにクズか

再起不能になるほどに牙をむきつぶす

私のやり方に二度と口だすことのないように

全力で痛いところをえぐる

 

 

 

なぜ、自分の中にこんなに大人げない

怒りがあるのか分からないけれど

自分の中でどうしても許せないことって

なんだろう〜!?と考えていたらこの二つが出てきた。

 

また、常に

「変人」「変わった人」「個性的な人」

「いかれてる」「狂人」「超人」

「不思議ちゃん」「天然」「頭おかしい」

などと

ふつうにしているつもりがそう言われてしまう。

 

それがコンプレックスだった。

たまらなく嫌だった。

学生のころ、何をしても目立つのは私。

良くも悪くもいろんな役が私に回ってくる。

 

だからなるべくなら、ひっそりと影に隠れて…

って、それが「ふゆかどうした!?」ともうすでに目立つ。

 

リーダー的なわざわざ目立つ役割もうんざりだった。

何かと「ふゆかが言った」になっている。

 

だから、どうしても許せないなぁ〜と思う人がいるならば

変人に憧れ変人ぶる人

目立ちたがりで奇をてらう人

あたしを変わってると評して憧れる人

 

強いて言えばこの辺の人であろうか。

私はダンシングデビルじゃなくて大瀧冬佳なんだ

私はかさこ塾生なんじゃなくて大瀧冬佳なんだ

私はバレリーナじゃなくて大瀧冬佳なんだ

 

そういう属しているものに対して

好きとか嫌いなのではなく

属しているモノからしか人を判断しない人が

いまいちいけ好かない。

 

そして自分自身も属している何かではなく

いつだって自分自身に誇りをもっていたい

 

だって、ダサい!!!

そう、ダサいのが嫌い。

 

なんだかコバンザメにくっついてくるちっちゃい魚のよう。

 

 

何かに踊らせれてる人とは私は馬が合わないだろう

◯◯だから好きとか

◯◯だからスゴイ!とか

好きなものさえも、みんなが認める理由に踊らされないと

ストレートに好きと言えないのか!

 

自分の意志を決意を

時代や社会や隣人や常識に踊らされてて

それも気付かずに人からの評価を気にしているのはダサいな〜

 

テレビのワイドショーなんかまさにそれだよね

まるで自分の意見かのように踊らされて滑稽

 

 

「ふつう」か「変わっている」か

そんな人からの評価気にしてる暇は私にはない

それにそんなの愚問だと中学生くらいで気付いた

 

だって、「変わっている」のが当たり前で

それが「ふつう」なのではないかと思う。

 

あなたも、いつまでも自分の人生誰かや何かに舵とられていないで

自分でちゃんと選ぶべき、自分で自分だけの踊りを踊るべき。

 

あなたの舞台はあなただけのもの。

選んだらそこで全力で踊ること。

 

私がダンスで伝えたいこと〜京都へ行ってみて〜

 

 

 

先日、京都へ行ってきました。

「ダンスのつながりで旅をする」

という一つの夢と

 

「ダンスで心通わせる空間を提供する」

という夢を叶えてきました

言語:非言語=3:7

この割合は人に伝わっている情報の割合です。

私たちはコミュニケーションというと

話し方、聞き方に重きを置いていると思います

 

しかし、

言葉以外のところで相手が汲み取っている情報量は

想像以上に多いのです。

 

そして、自分自身も言霊の力に加え

ボディランゲージが自分に及ぼしている力も

とても大きいです

 

私たちは何故、良いことがあると

誰かに教わった訳ではないのに

ガッツポーズをしたり、両手を高くあげたりするのでしょう?

 

私たちは何故、哀しいことや落ち込む出来事が起こると

小さく猫背になり、顔を両手で覆ったりするのでしょう?

 

嬉しいことがあって、縮こまる人はいないと思います。

悲しいことがあって、ガッツポーズをとる人もいません。

 

ダンスの起源は言語の生まれる以前から

私たちの遺伝子に刻み込まれたコミュニケーションの力だと

私は思うんです。

 

感じ方は人それぞれとよく聞くけれども

ボディランゲージに至っては

時代、国境、性別を越えて唯一共通のものですよね。

 

また旋律、リズム、テンポ…

これらの情報から悲しい曲なのか

ハッピーな曲なのかの感じ方もみな大体同じことを感じられます。

 

その中で、自分の人生経験の中で

同じハッピーな感情でも思い浮かぶ光景は

10人いれば10通りのハッピーがあり

 

悲しみもまた10の悲しみがあります。

 

そうしたものをダンスで自己を開放させ交換することが

ダンスでのコミュニケーションで

それが私たちのご先祖さまがやってきた祭りの始まりです

 

五穀豊穣を願って、雨乞いをして

「生」に直結した踊りだったんではないかと思います。

 

 

私は言葉にできない、もしくは言葉にしたくないような感情を

子供のころからバレエにぶつけてきました。

気兼ねなく自分の心を開放させられる唯一の場所でした

 

ダンスと出逢ってなかったら私は今頃生きていないかもしれません。

結果、振り返れば心の治療のようなものでした。

表現をすることでまた明日も生きていける勇気がもらえました。

 

まともで健全な自己肯定感を育むこともできました。

 

特別な話ではなく、ダンスにまつわるそうした話は後をたちません。

楽しいを越えた、「生」そのものを実感できるダンスは

私たち現代人が置いてきてしまった宝物だと思うんです。

 

自分の中の美しさ、自分の命の官能にしたるような感覚なんです。

 

私はそれを「セラピー」や「療法」という

結果を先に提示する言葉で表現したくなくて

だから、どのようにアプローチしていくのかが

ここ半年以上にわたる課題でした。

 

ダンス未経験の人がダンスをどう捉えているのかも

想像がつかなくて…

ダンスのない世界で生きていたことがない私には見当もつきませんでした

 

 

だから、最初のアプローチはステップを教えるクラスや

カラダの動かし方を教えるクラス

と、外側から攻めてみたのですが

全然、私のやりたいことではなく

考え悩み、トライ&エラーの連続で自信を失いそうでした。

 

自分の中にある確信は確かにあるのに

どんどん行動が遠ざかっていく恐さがありました。

 

 

そこで、

京都で開催した「ダンスパーティ」と銘打った企画は

教えるということの一切を封じて

とにかく心と体の開放にのみ重きをおいた

ダイレクトに勝負してみようと私も肚を決めた

 

ダンスパーティのはじまりは自己紹介からにしました

名前、出身地、趣味特技などという情報は一切なしで

誰にも明かしたくない自分だけが知っている望みや野望

ゲスい心の内、そう言ったものを話してもらいました。

 

参加者は思い思いの衣装をまとい

顔には仮面をつけてもらっています。

 

不思議なことに顔を隠して心はさらけ出す

ということが可能になるんですね

 

日常では逆です

顔をさらし心は取り繕い隠しています

本音を内に沈め込ませすぎて

自分でも分からなくなっている人があまりに多いと私は感じます

 

ですから、ここではそれをやっていただきたかった

「その打ち明けた飾らない想いを音にあてて欲しい」

これだけがこのパーティのルールです。

 

私が用意した音楽はジャンルもテイストもバラバラ。

耳や肌で感じた音とリンクした心を

頭のフィルターをかけずにダイレクトに表現すること

 

恥ずかしがっている方が恥ずかしいくらいに

みな曲が1曲1曲と重なるたびに開花していく感じがありました。

 

 

スタジオの照明もギリギリまで落としてムーディな異空間をつくって

私も参加者さんがいないかの如く自分に集中していました

情感たっぷりに、曲によっては涙ぐんでしまいそうなくらいに入っていきます。

 

基本的に私が本気で踊っているときは

ランナーズハイに近いちょっと違う次元に入っています

 

それを一度も踊りなんてしたことない人に

伝染させることができるのかは

大実験でした。

 

結果、できてしまうんですよね!

びっくりでした!!

 

 

私自身がダンスを、自分を信じていなかったのかもしれません。

未経験だろうと、運動神経がなかろうと、歳をとっていようと

そんなの一切関係ありません。

 

もっと信じるべきだった。

私が信じきれていないものを人に伝えられる訳がない。

 

常々、上手いとか下手とかは関係ないと言っておきながら

外堀から守りから入っていた私は臆病でした。

 

ダンスの可能性と自分の可能性を見せてもらいました。

 

 

私は、これを例えば企業の研修に私を呼んで活用してもらいたいです。

刑務所の受刑者に向けて、児童養護施設を出所した子たちに向けて

発達障害の方に向けて、役者やダンサー、ミュージシャンを目指す方に向けて

離婚を考えはじめてしまった夫婦に向けて、お年寄りに向けて

入試や就職の面接を受ける方に向けて

 

いくらでもありますね。

内に沈む自分を見つけにいくダンスは

その後のコミュニケーションに油をさすようなものです。

自分を知って、表現をして認識すること。

開放する感覚を知ること。

 

これって、頭で分かるのと体感するのでは

雲泥の差があります。

はぁはぁ!と分かった気になるかと思いますが

それはたぶん、エロ本を夢中で読む中学生が

大人の愛し合い方を知らないレベルに匹敵します。

要はファンタジーではなくリアルになるんです。

 

例えがなぜ中二男子の気持ちになってみたのか謎ですが笑

 

だから、これをまずは体感しに来てください。

今度3/12、私が出演する舞台は観客がただの傍観者でいられない

興奮の渦にまきこまれるパフォーマンスをしますので

 

ただの阿波踊り!ただのダンス!と思って来ないでくださいね!

 

あなたにカラダと心があるなら、来て体感した方がいいですよ。

来なきゃ損しますよ。

また、どうせ、そのうち舞台やるんでしょ!?って思うかもしれないけど

舞台は生ものなので、その日その瞬間でしか絶対に味わえないんです。

その日に高円寺に観にきてくださった人にしか味わえないんです。

 

youtubeで見るのとは全然違うものですからね。

 

チケットの購入はこちらから↓

http://takarabune.org/blog/?p=215

 

私は京都でやったダンスパーティを東京でもう一歩進化させて

また開催するつもりでいます。

その際は生演奏でセッションを考えています。

 

熱い想いがある方ぜひ参加お待ちしております!!

 

スピリチュアルで現実的な話

 

 

 

 

 

まず、やってみる

これがどれだけ途方もない大変なことか

やってみたことのある人にしか

わからないだろう

 

まず、やってみることを

成功者は口をそろえて言う

 

でもね、ここが落とし穴なんだけど

1回じゃないの

1回勇気をだせばいいもんじゃない

1回勇気だして何にもならなかった2回目の勇気

100回目もダメで101回目の勇気はどんなものか想像つく?

 

だけども10000001回目で

辿り着けるかもしれない自分のその気持ちを

イメージするともう勇気とか言ってられない

 

1回で済んだ成功者は恐らくこの世に一人もいない

みな途方もない数、

「まず、やってみる」と挑戦している

人知れずどれだけの手数をほどこしてきたか

人知れずどれだけの悔し涙をのんできたか

 

 

まずやってみると口にするのは簡単だけど

引き返すことはできないことばかりだったり

今まで築いてきたものが見るも無惨に

崩れ去ってしまうこともある

 

まず、やってみるで重い腰をあげるエネルギーに比べ

得られる対価は確実に少ない

むしろ無かったりマイナスだったり。

限られた環境の中で

持っているカードを切って

そこまでしてやる意味があるのかと

脳裏をよぎっては

よぎってしまう自分に苛立つだろう

 

 

でもそれでも挑む人たちがいる

挑みつづけた人間にしか辿り着けない場所がある

 

そのやってみるエネルギー

いつか枯れてしまわないかと言う恐怖

次転んだら私は立ち上がる力が残っているのかという恐怖

立ち上がる余力なんて計算にいれずに走っているんだもの

 

 

そんな恐怖をもつことすら負けた気になり

自分の全てに苛立つ

 

 

後ろを振り返ってはもう足がすくんでしまう。

震える膝を叩き、自分を責める

 


自分の次の扉を開けて勢いよくまた歩き出したい

そんな日は

全部がひとつにバシッと噛み合った日

 

何を主軸に噛み合わせるかと言えば

私はこう見えてスピリチュアルなことだと気付いた。

魂なんだ

持ち主の意図でどうにかできないものだからこそ

噛み合った時に神がかる

とても気まぐれで自由奔放で日本語が通じない

 

何にあたしの魂が動き出すかって

イマジネーション

 

脳に焼き付くような程度のイメージじゃなくて

もっともっと強いもの

生まれる前から知ってたくらいに

強い煌煌とした輝きを放つ

青く白く揺れる炎のような熱いものじゃないとダメなんだ

 

そんな記憶を魂が思い出したとき

あたしは止まらなくなる

 

魂が恋い焦がれてカラダが焼き尽くされそうになるほどに魅力的なイメージ

 

 

妥協なしに現実を生きてる上にポッとふってくるんだ

 

 

だから私はこのためにストイックに

もっと自分に集中していきたい

 

一点の曇りもないカラダと心を作っておきたい

当たり前のことを当たり前にきっちりやりたい

 

頑張りすぎるなという人の言葉のいいなりにならない

いいからちょっと黙っててと私の肚の底が怒ってる

賞賛も非難も騒音。

 

だってどうしてもあそこに行きたいから。

 

よかった、息を吹き返した大瀧冬佳!

これでまた自分を好きになれる。

 

 

 

 

こどもにキレた話

 

 

うちの子はどこか私が外では怒らないと高をくくっている

恐ろしく人の心を見抜く力の鋭い子供たちで

さすが私の子供だな〜と思う訳だ

大人が子供に弄ばれていること多々あり

ここまではイケる!?っていうリミッター限界まで

甘えさせてくれるポイントを探ってきてるからね?

 

ウチの子と接する機会があれば

注意していただきたい

主導権を子供にもってかれぬように!

 

 

そして

母、ふゆか、熱がでた。

鳥肌が止まらなくて

悪寒と頭痛と関節痛と吐き気

立ってるのもやっと。

 

しかし、子供たちは容赦なく愚図る

 

でもね、

もう余裕のよの字も私には残されていないので

教育でもなんでもなくただぶちぎれた。

この小さな悪魔たちを統率するには

最後は恐怖でしかないのだろうか?と

哀しくなるが…

 

久々にキレた母をみた子供たちは

まぁ気持ちいいくらい言うことを聞くものだ。

 

はやく看病してくれるくらいに成長してくれないかな。