最強にHAPPYな選択

あなたの毎日の生活、最強にHAPPYな選択ができているだろうか。

世界は思い込みでできているのではないかと最近の私は割と本気で思っている。

3年前に通ったかさこ塾第一回目の講義で12の質問が出された。その一つに100億円あったら何をしますか?という質問があって、私は何も答えが出てこなかった。

今は人生最大の買い物は私自身だと思っていて、私が動けばお金がかかる。

今、この瞬間、究極にHAPPYなシチュエーションをいちいち想像する。その最強に!究極に!HAPPYなシチュエーションは、今現在はあり得ないことかもしれない。でもね、想像すらしないというのは実現することもないということ。

人は面白いものでただひたすらにHAPPYなだけでは飽きるんだ。ある程度、苦痛とか、不満とか、困難とか、そういうのがあってはじめてHAPPYをよりHAPPYに認識できたりする。

面白い生き物だよね、でも本当にその苦難、選ぶほど価値あるかな。ダイレクトにHAPPYを感じる勇気はないかな。

私はその苦難、妥協だったことに気づいた。自分の人生この程度という妥協。このくらいのHAPPYがわたしにはお似合い、と決めちゃっていた。

究極のHAPPYを想像するのも訓練が必要だ。ましてや自己肯定感があまり育たない環境で大人になった人はここ、すごい苦手だと思う。

ついつい不憫なシチュエーションに身を置いてしまったり、幸せ慣れしてなくて距離を置いてしまったりする。

まぁまぁいい感じな人生を歩んできた人も、「最強に」とか「究極の」というパワーワードで自分の人生を捉え直してみてはいかがだろうか。

 

いずれにせよ、これは「社会的から見て」ではなくあくまで「自分にとっての」最強にHAPPYなシチュエーションを想像するのだ。

それはアドバイスじゃなくて呪いだ

よくもまぁそんな簡単に人の言葉を鵜呑みにできちゃうよね。

私思うんだけど、あなたの人生の最終責任を誰がとってくれるかってあなたは考えたことないんじゃないかって思う。でなければ、「あの人がこう言ってたから」ってそんな小さなことで自分の本音曲げないと思うよ。

また最近聞く。「私、本当はこうしたいんです。でも、人はこうこうこう言うので、そうかなと思って悩んでます。」

おう!一生悩んでろ!!って言いたくなるよ。だってさ、そんなんアドバイスでも何でもなくてただの呪い。で、呪いが悪いって言ってなくて、「ただの」呪いなのよ。取るに足らないことだ。

呪いかけてくる人なんてワンサカいる。何なら自分だって自分に簡単に呪いをかけられるよ。

いつまでたっても、どこまでいっても、何があっても、きっとずっと「それはさておき、そこであなたはどうするか」という問いなのだ。

世界の変え方をあなたはまだ知らない。私があなたに呪いをかけるなら、「世界はあなたにも変えられる」だ。

本気ならもう始めてる。私、これに尽きると思うのだけど、でも、大事なことって何かを成し遂げたり、何か新しいことに挑戦したりっていうことではなくてそこであなたは何を感じるかなんだと思う。

本気ならもう始めてるって言葉、私は好きだけど、ある人にとってはやや暴力的な言葉になるだろう。やればいい、始めればいいってそういうことじゃないからだ。それをやってる自分は何を感じるのか、それを始めた自分は何を感じるのか。

外側に惑わされてるだけだからきっとやらないし、始めないのよ。だから、本当はやりたいといいながらなかなかやれないことにも意味があって、それは自分を知る絶好の機会だ。

人のアドバイスなんて、あなたにとってそんな重要ではないはず。格好の「やらない」を選択する理由だったにすぎない。だからその人がそのアドバイスをしなかったにしても、たぶんまた別のところから「やらない」を選択する理由を見つけてきたんだと思う。

「やらない」ないし「できない」。不可能とか、無謀とか、無理とか、全部嘘だからね。ほぼ100%、不可能と言われることは可能なこと。

というか、不可能だろうが何だろうが、やるんだよ。やりたいんだ、その先にある景色を私は見たいのだ。だって私の人生だから。私が決めること。そういう風には思いませんか。最終責任は自分でとるしかないんだよ。

 

初のソロ公演を終えて今後の展望

ご来場くださったみなさまありがとうございました。無事終演することができました。大変高額なチケットにも関わらず日本全国から22名のお客様にお越しいただきました。

私的には自分の頭の中が世の中にどこまで受け入れてもらえるのかなという実験のような公演でもありました。実験というと誤解を招きそうですが、言い方を変えれば大瀧冬佳をもっとも濃く抽出したディープな場づくりということになります。

ですので、広く公向きなソフトな作品にはなり得なかったので、本当にどうしても観たい人だけにお越しいただきたいと願いました。

言語化できるような感想を持たれては、この作品に至っては失敗だと思っていました。私の中のどうしても言語化できないものを伝える術として、舞台を選んでいるのです。もし言語化できるのであれば、私はブログに書きます。しかし、言葉を超越したところにある世界観、ビジョンを見せたい。さらに頭で理解することを放棄せざるを得ない情報量をおとすのが今回の作品の目的でした。

よく言われる、考えるな感じろなのですが、別に私は作中のキャラクターの人生に感動して涙する程度のものでは飽き足らないと思っていまして、それって結局は他人の人生を眺めているだけの傍観者であり、その人に深く影響を及ぼすに至らないのです。

今回の作品はあながちフィクションではないです。私には恐竜は並行した他の世界で今も生きていると伝えられています。何をいうのか、と大多数の方が思うのも当然です。ほら、言葉では全く伝わらないのです。だから舞台での表現を試みてみました。

正直、共演者やスタッフさえも今回の作品の根本的な理解は不可能だったのかと思います。でもこれでいいんだと思っています。今回のソロ公演を終えてその結果は私の予想とは全然違かったのでやるべきことがすごくはっきりしたように思います。

 

そんなこともあり、私は私にしかできないことをしないとならないので、今やっているほとんどの活動を終了させて、Uzmeの公演のみに絞っていくことにしました。同時に人もたくさん離れていく予感もあります。それは今まで私が私として生きていなかった甘さのせいだと受け止めようと覚悟しています。

できることってとてもたくさんある。やって人に喜んでもらえることもたくさんありすぎる。あれもこれもやってみたからわかることだけども、私が私である唯一無二のことをしようと思うのです。

SNSの友達の受け入れに関しても、今までは頭で選び過ぎていました。でももう本当に耐えられないものがあるので、理屈抜きにダメなものはダメというところで、「感じ」でかなりシビアに選ぼうと思います。

レッスンやWS、講座等も完全終了させて、自分自身の研鑽の時間に費やしたいと思います。なんというか、イチローが資格取ったり、教えたりしていないよね?その分自分に費やしているよね?という感覚が私には強くて、「教え始める=引退」という感じなのでもっと先でいいかなと思っています。

本を出版したいと動いていた時にはお話全く来なかったのに、今になって出版のお話が来ます。でも私はもともと言語で伝えるものではなく、非言語で伝える者なのでこの先も本の出版はしないことにしました。

メディアにも出ないことにしました。出るとしたら私の手の中でコントロールできるところにのみ出ていきたいと思います。大概、私が纏っているエネルギーが傷付いてしまうのであんまり好きじゃないんだと思います。

そんな感じでやらないことが明確になってくると、サイトのメニューやカテゴリやコンセプトなどもすごく明確に設定しやすくなります。誰に向けて何を発信するか、今一度仕切り直していきます。

photo by bozzo

絶対だと思っている価値基準を意識的に変えてみる

自ら発信するのをやめたら私は世界との繋がりはほとんどなくなるのかな。それを今の私は怖いと思うのか、ホッとするのか、どうなのか。そんなことを、ふと考えた。

きっと、どうとも思わないような気がする。

私はいつだって、今やっていることは未練なく明日すぐにやめてもいいようにしたいと無意識に思っている。あなたも今日一日いろんなことをしたと思う。寝食以外のことで、特別に続けている類のこと。

例えば、「SNSをみる」もそうだし、「誰かとお茶をする」とか、なんでもいい。それを明日にはきっぱりやめるって想像してみてほしい。どう感じるだろうか。これはどうしてもやめるの怖いと思うだろうか。やめられるもんならやめたいと思うだろうか。それはやめられるわけがないと思うだろうか。

そしてそれはなぜそう思うのだろう。

私はそんな風に自分の今日したことを寝る前に時々振り返る。それは無駄な時間を過ごさないためとか、生産性のある時間、効率よく過ごすためってことではなく。自分の価値基準を変える遊びを楽しんでいるのだ。

どれくらいフットワーク軽く、アグレッシブに変化を楽しめるのだろうかっていう遊び。自然と「これ絶対」という思い込みや刷り込みはできてくる。それを自分で目から鱗!!!って感じの革新を起こすことで世界はより刺激的になる。

脳内世界旅行に近い。私は海外旅行には一回しか行ったことがないけれども、よく海外から帰ってきた人が「価値観が変わった」と言うじゃない?あれを海外に行かなくとも自分の中でできてしまう。するとこれを続けていると、自分にとって絶対的なものにも執着がなくなり、柔軟な意見を持てるようになったり、人と違う意見が言えたりする。そこに執着していないからだよね。

誰かに幻滅されないか、大したことないって思われないか、そんな風に傷つけられるとや奪われること、壊されることに恐怖や不安を知らず知らずに抱いている人って、ガラクタを(本人は超重要なものだと思い込んでいる)必死に抱え込んで身動き取れなくなっていたり、ハリネズミみたいにトゲトゲをむき出しにすることで人に介入されないようにしていることってある。本当は寂しいのに。本当は愛されたいのに。

それは少し前の私なんだけど。肩で風切るようにして、強く見せて世間に負けないように必死に生きていた。何をそんなに必死に守っていたんだろうな。誰から守っていたんだろうと今はとても不思議に思う。だって今は手ぶらでノーガード。

基準を変えながら世界をみてみるのも、なかなか面白い。あの人の大事にしているものを想像できるようになるからね。

毎日未来の自分のためにしていることがある

どんなことでも良いのだけど、未来の自分のために毎日毎日していることがあるととっても心が安定する。

自信のない人やいつも他人の意見に流されてしまう人や優柔不断な人、人の目が気になってしまう人、気分のムラが激しい人などは外側の何かを取り入れるよりも、こうした自分の中だけの沈黙の作業を淡々と積み上げていくのはとっても効果的だと思う。

なぜ毎日がいいのかというと、自分の中だけのリズムが日々の生活に生まれるのってすごく大事だからだ。外側の環境に左右されない自分の安定を保つのに、「毎日」というのが結構重要な条件だと思う。

私は閉鎖病棟に入ったとき、そこは劣悪な環境で、病院とはいえ、病室は6畳の畳の部屋に敷布団8組を重なり合わせながら敷いた…そんな病室だった。糞尿が身体中についてる他の患者が私の布団に入ってきて寝ていたりしても私は強い睡眠薬で眠らされてるため意識を戻せなくて起き上がれなかったり。性欲・食欲・睡眠薬だけが残った形の患者さんたちは目の前でずっと自慰行為をしていたり、なんだかもうほんとしんどかった。

刑務所の方がマシなのではないかと思う。でも、そこで精神安定剤より効いたのは毎日欠かさずにやっていたバレエとストレッチと筋トレ。

奇声が常に響き渡り、悪臭に鼻がもげそうになるような環境下。まともにコミュニケーションを誰かととることもなく閉鎖された空間にいた出れるとも知らず閉じ込められていても、それでも、自分の中に安住の地を作ることができる。

結局、環境に左右されない強さは日々の積み重ねによって生み出されるんだなと。

閉鎖病棟に入ることはそう滅多にあることではないけれども、人生、生きていればみんないろいろあると思う。自分だけのリズムを持っておくのは、セーフティネットのひとつと捉えてもいいんじゃないかと思うくらい大事な自助システムだ。

自分の未来のための積み重ねだから、周りがどんなに絶望的な環境になろうが、自分の中にポジティブな空間を私は創り出せるのだ。

「続ける」って難しいって思うじゃん?でも、こんな風に捉えると何かひとつ自分のために始めてみたくなりませんか?

他の誰でもない自分のために積み重ねるもの。それは子どもや親や、夫や、妻とか関係なく。仕事も関係なく。純粋に未来の自分への積み重ね。一日0.1だけの力でできることを。毎日毎日。

努力や根性という話とは少し違う。だからよーく自分に問う。未来のなってるであろう自分から逆算して、これを積み上げた結果だろうなとシンプルに思えるもの。

もう一つ面白い話をすると、私にとってはあんまり努力とか関係なくて、こういう風に自分のペースを守ることで世の中にのまれて自分を見失うことがなくなる、そういう儀式だったり結界のようなものだ。

粛々と自分に向き合うことで、傷付いたエネルギーを修復して増幅させるような時間。自分の中に集めた立て直す時間。

そうだ、あれに近い。小さい頃、ピカピカのツルツルの泥団子作ってたソレだ。あれは全くもって努力ではないじゃん?整えるってことに異様なこだわりを無意味に持って淡々と取り組む。

そんなものを自分のために毎日持つこと!それには何かをやめて時間を作る必要がある人もいるかもしれない。削って切り替えたら相当いろいろ変化するはず。

宣伝・集客・告知にお困りのダンサーさんへ

集客という言葉はあまり好きじゃないけれども、こう見渡していると、あまりにセンスのない集客だなと思うことが少なくない。集客の根っこは思いやりや気遣いだと思うので、ここセンスない場合は本編もすこぶる良いものってものでもなさそうではあるが、それでももっとここにほんの少しでも改善してお客さんを多く呼べるようになったら、もっと社会にアートが浸透するんじゃないかと思って、集客について書いてみようと思う。

まず、やらない方がいいと思うものは、コピペで大量に送る告知メッセージ。あと、私はその方との以前のやりとりもチェックしてから、文章を書くようにしているし、文章力の問題もあるけども自分の心の中に「呼んでも来てくれないかも」とか「迷惑かも」とか「もしよかったら来てください」とかそういう気持ちを持ちながらメッセージを書かないようにしている。

そんなことって思うかもしれないのだけれども、そういう気持ちは目には見えなくとも確実に乗っていると思うんだよね。自分がまずどれだけの気持ちを投げたかなのだ。断られるにしても、断られ方が全然違ってくるからちょっとやってみて欲しい。

私は最近結果としてはお断りのメッセージをいただいても、そのメッセージにさらに本番頑張ろう!って元気をいただいて涙することが多い。本当に大瀧冬佳を応援してくださっているのだなと感じるから。

集客が嫌だなって思うのは、どうせ断られるとか、自分の人望のなさをありありと見せつけられるからかと思うのだけども。そんな風に集客っていうのは自分の承認欲求を満たすためのものじゃないから、まずそこの出だしを考え直した方がいい。何のためにお客さんにみにきてもらいたいのか。

主催側に集客しろと言われているから。周りは集客していて自分だけできていないと肩身がせまいから。ノルマだから。その気持ちはお客に伝わるよね。私は文面読む前からわかったりする。いや、結構お客さんってみんなそういうのわかっている。

「シェアしてください」というのもこちらからお願いするものではなくて、あちらが少しでもいろんな人に知ってもらいたいと思った時のシェアだから、みんなに広まるものであって、シェア○件と数字ばかり大きくってもその威力はまるで違かったりするのだ。

もうお客さんを数字と捉える集客は早めに終わりにするべきだ。私たちアーティストはもっともそういう人の心を大事にして、ものを作り、演じている者ではなかったのか。なのに、なぜ「集客」となると途端にそのセンスのなさ。自分さえ気持ちよければそれでいいのか。

熱は伝わるよね。それは隠そうとしても隠しきれないもの。

私にもいろんなテクニックみたいなものないわけではないけれども、どんなテクニックを使っても、この根本のところがなってないと逆効果になる。

最近、私なんかよりもずっとずっとキャリアがうん10年もあって力のあるプロデューサー的な方に「わかります!わかります!」と私のお客さんに対する姿勢に共感いただいたんだけども、相手の方、共感されているにも関わらず、後に続く自論が展開されているコメントに私は微塵も共感できなかった。どう返事していいかすごく迷った。

でもその自論を読ませていただいて、色々と合点がいった。彼はいわゆる、心がないテクニックありきの集客だけをしてきていて、私のやり方はテクニックの一つとして捉えているから輪郭はぴったし一緒なんでしょう、彼の中では。外側だけ見た場合には、その差は気付かないかもしれないのだけれども、私からしたら、どこが一緒なのかさっぱりわからないくらいに肝心の中身が空っぽなんだ。

「お客様のために!!」この言葉を心の底から、これに基づいて全て言動が生まれているのと、

「お客様のために!!」で動いておけば集客できるからで動いているのでは、全然違うのわかる??

テクニックとかマーケティングとか一通りは学んだけど、肝心なことはもっと別にあるなって思ったし、肝心なものをちゃんと持っていれば自然とできるものだ。

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

私の中の深部が震える階層だけを集めた作品「靈」

私の体の中にも階層がある。そしてあなたの体の中にも。

どこが振動するのか、打ち震えているのか。が私の中のコンパスみたいなものなのだけども。今回ソロ公演用のストーリーを書いたり、曲を選んだり、振付をしたり、衣装を決めたり、会場を選んだり、そこに関わる人を決めたり、お客さんを選んだり。そういうことをしているときに、これしか選べないっていう感覚に何度も陥ったし、もうどういう空間が舞い降りるのか見えているからそれしかやっぱり選べないのだ。

頭でこれ良い!と思ったものは、ことごとく却下されて、心で良い!と思ったものも、今まで集めてきた作品のカケラの中に並べると全然違くて悪目立ちするし、単体で見たときは良いな〜!と思ったものが、全部と繋がるピースとして考えたら一ミリもときめかなくなる。

タイトルに関してもラストシーンも本当に何度も何度も私は抵抗して、違うものをつけてはしっくりこない感じを味わって、渋々「靈」にしたらやっぱり作品のピース一つ一つが共振共鳴するようになって、より一層の骨太感が増した。

階層っていうのを、言語化してみると。階層が深いところは自己から遠くなっていく。でもそこは本来の自分であり、かつ、融解されてもっと根源的な魂のルーツに近く感じ。つまり、本来の自分に近くっていうのは同時に自分を失うに近いのかも。難しいなぁ、言葉にするのは。意識がある世界と無意識の世界があって、実は無意識の世界の方がずっと深く広く大きくて、世界のほとんどはそちら側にある。

欲しい商品をAmazonとかで検索するときにまず「キーワード」を打って、さらにそれでも膨大な数ヒットしてしまうときは条件検索をするじゃん?(あ、Amazonよりも仕事探しや、家探しの方がしっくりくるかも)階層ってそれに近いかも!私たちが見たい世界は「現実」「物質」「思考」「感動」などの階層のものしか検索しない。だからヒットするものも、もちろんそれしかないんだけど。実はあるんだよね、感知していないだけで。私はこの打ち震えるものは何なんだろうっていう好奇心から、その条件のタグを全解除して検索してしまったら膨大な情報が出てきてしまったって感じ。

するとそこに、私の中の深いところで振動していたものに共鳴するようなピースがたくさん埋まっていて、それを集めたら、一つ一つは青いタイルでしかなったものが、パチパチパチパチ繋がって高いところから俯瞰したら、一枚の大きなモザイク画になっていたって感じ。

この世界は一体どうなっているんだろう?って本当に思う。これは思考してしまったり、自分が混じってしまうと解読できないもので、とにかく私はそれの意味はわからないから表に現すことだけをしてれば良いみたい。きっとそれを解読してくれる人が現れるんだと思う。

靈という字の三つの口はそこに繋がるための入り口で、雨と巫女がその入り口を通して繋がるってそんな作品をやらなきゃいけないんだ。当日はもしかしたら雨かもしれないなぁ。でもあの工場のシャッターの外で雨音が聞こえるってそれは素敵だろうな。

エネルギーは高けりゃ高いほど言い訳じゃないし、周波数も上げれば上げるほど言い訳じゃない。だって、イルカの声とか聞こえないじゃん。人間の中でも低いところから憑依させて上げていくから、伝わる作品になるんじゃないかっていう自論。だから、メンタルもフィジカルも今回の作品もすごく鍛えられる感じだ。

 

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

結果を出して安心させてあげる

心配されるんだよね。心配とかかわいそうっていう同情って本当にめんどくさいなって私は思ってきた。それはなんでかって言うと、究極私を信じてくれていないんだなってこと。

でも、これ仕方ない。あなたの人生に責任持つほどあなたに信用も信頼もないから。そして、他者への信頼は自己への信頼に比例すると思う。

信用と信頼は別物だと私は思っていて、今、私はどちらかと言うと信用より信頼を得られる人間になろうと思っている。けど信用を積み上げる方がやり方が簡単。信用は何かの条件をクリアすると信じてもらえるってこと。で、信頼は何も条件なく信じてもらえるってこと。条件があるとしたら、「あなたがあなたであること」が信頼の条件。

すごく似ているようで、結構違うのだ。

ダンサーが仕事をもらうのに、〇〇コンクール入賞とか、〇〇バックダンサー出演とか、こう言ったものは信用。私はダンサーだけどもこう言うものは一切積み上げる努力はしてなくて、完全に「大瀧冬佳が大瀧冬佳である」ことだけに注力している。大瀧冬佳の輪郭をハッキリとつけることが、ダンサー大瀧冬佳として生きていく道。そうなると同じダンサーであっても活動する場所はほとんど交わらなくなる。いいのか悪いのかわからないけど。

もう一つ、信用と信頼について話すと、信用金庫とは言うけど、信頼金庫とは言わない。これはわかりやすい。大瀧冬佳であるだけでお金貸してくれるわけないもん。

信頼関係を築くとは言うけれども、信用関係を築くとは言わない。信頼は精神的な繋がりで、信用は物理的・証拠があっての繋がり、意味や意図、目的があっての繋がりな気がしない?なので、ダンスカンパニーUzmeはキャスティングに命をかけているのだけども、信用と信頼の狭間で選びたいと思っている。ギャラの範疇の仕事を最低限してもらえるプロであり、かつ、団長の思いを形にしたいとプラスアルファの力を発揮しようとしてくれる人が結果全員だったなと振り返って思う。

そう考えると、信頼は未来を信じることで、信用は過去を信じることなのだ。大瀧冬佳自身が突けば何が出てくるかわからないブラックボックス感が強いので、その「この人なら何かやってくれるんじゃないか」って言う期待を増長させていくのが大瀧冬佳の仕事。

そして、表題の「結果を出して安心させてあげる」だけども。信用だろうが、信頼だろうが、他人の9割はいずれにしろ信じてくれないよ。「できない」「無理だ」「無謀だ」とあなたの力を信じてはいない。そりゃそうだよね。

「信じる」をほとんどしない人生ってかなり貧しいと思うのだ。信用でも信頼でも「信じる」ができる人って豊かだとは思いませんか?

色々信じられない人の口癖はきっとこう。「どうせ…」「だって」「〜だったら」「でも」きっとネガティブなものばかり。他者に向けるその言葉は100%自分にはね返ってくる。あなたが私を信じてくれないことは別になんとも思わないが、逆にそこまで否定できる心だと、自分をも否定し続けることになってるだろうなって想像する。

だから、私は有無を言わせぬ圧倒的な結果を出していきたい。時にダメな時ももちろんあるけれど、そんな風に頑なそうに見える、「信じられない人たち」も結果が出た時にはあっさり手のひら返して一緒に喜んでくれるものだ。ちょっと前の私はこの秘技手の平返しが大嫌いだったけども、これはきっと「本当は何かを信じたい」、「信じられるものを一つずつ増やしたい」と言う心の底にある願いの裏返しなんではないかと思うようになった。

ダンスカンパニーUzmeのファンは豊かになっていく。それは、とっても未知なことばかりの得体の知れない無名劇団の表現だけをただ信じられる人たちだからだ。

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

謎ブレーキと自由の関係性

日本人は無宗教だっていうけれども、そんなことはない。「ふつう教」だ。

脱・普通化!!!「やりたいことができない」、「やりたいことがわからなくなっちゃう」背景にはふつう信仰がある。

私はふつうよりも非常にアクティブ。行動力があって、飽きっぽいし、いつもなんかしらしている。ふつうよりもエネルギッシュ。だからちょいちょい言われる。「頑張りすぎないで」「焦らないで」「ゆっくりね」「落ち着いて」「よく考えて」

私的にはスーパースロウペースでやっているのだけども、そう言われてしまう。言われすぎて、最近はガンガン推し進めていくのが怖くなって、その他大勢に入ってそのペースを学ぼうとまでしようとしていた。

自分の本心でない謎ブレーキを必死にかけていた。アクセル踏み込みたい気持ちをグッと抑えて、ブレーキ、ブレーキ。

けれども、これ本当にしんどいし、面白くないのでもうやめることにした。

全然私は頑張っていないし、焦っていないし、落ち着いている。よくも考えているけど周りが遅すぎるだけで考えていないように見える。ある程度考えたらあとはやってみないとわからないってことがほとんどだし、考えすぎるとできなくなる。やる気がなくなっちゃう。

そんな風に何かに止められている気がしていたけど、誰も私の行動を止めようとなんてしていなかったことに気づく。ブレーキをかけられてたんじゃなくて、ブレーキかけているのは他でもない自分だったんだ!!!

だから「謎ブレーキ」なんだよ。あなたがブレーキかけたところで、何に誰に一体遠慮しているのかとにかく謎案件!!!

ついつい平均化。ついつい標準化。ついつい普通化。してしまっていないか。人は同じく目が二つと口が一つ、鼻が一つあっても同じ顔は一人としていないように…同じことをしてもどうせあなたはあなたでしかない。それを無理やりふつうにしてみたって、謎ブレーキかけているだけ。

私は、産後まだ2ヶ月の段階でソロ公演の準備を始めて、上に子供も二人いて、一人は今年の春新一年生になったばかりで、私は今年初めてPTAの役員もやっている。けど、別に何か大変な気はあまりしない。大変なフリはしとかなきゃいけない気がしている。人並みにあたふたしておこうという謎なことしてた。

そういうのもうやめちゃおう。

だって誰のためにそんなことしているのかちっともよくわからない。

星が見たい、学校とかやめさせたい。私、もっといろんなところで踊りたい。キャンプしたい。うん。星空の綺麗なキャンプ場をまわろう、踊りながら、子供を連れて、夜は語らいながら、自然の中で静寂を味わいつつ、音楽きいて揺れて、そういう生活したい。

それって、すごいね〜!ってきっと言われるけど、すごくもなんともなくて、自分の本心に従ったまでだよね。誰になんの制約を受けているのか。打算や損得勘定じゃなくて、もっと自分の本心に沿った生き方を提案していこう。

私はこの歳になるまですごく頑張ってきた。もう自分の好きなように、好きなものや好きな人に囲まれて生きていっていいと思う。それを自分に許可したい。世の中の決まりみたいなことがたくさんあったとしても、業界からはみ出したダンサーかもしれないけど、常識人ということよりも自由をとりたいから、その分自分に自分で責任持って生きていけばいいだろう。

時に、自由に生きることは孤独を感じるけど、私はいつだって孤独だった。孤独を知っているから人の優しさを知っているし、人を愛することができる。だから孤独ではあるけども孤立はしていない。それってすごく大切なこと。

自己承認欲求や自己顕示欲を満たすための居場所や、コミュニティーはもう私には必要ないのだ。そこに所属している限りは自由は得られない。し、本音100%でなんてとてもじゃないけど生きられない。折り合いをつけて、割り切っていかないとそこにいられない。その分、楽だろう。

いろんなコミュニティがあって、どのバランスのところにいるのかは自分で選べる。

私も謎ブレーキを器用にかけてそこに属すことができたらいいけども、生まれてから一度もそんな器用なことできた試しがないのだから、諦めよう。ブレーキ外してもっとふわふわ〜っと好きに生きていこうと思う。

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

7/13~
全国ツアー2018スタートします!!!
詳細は後日。