他人にかまうエネルギーは使わず自分に忙しい人が魅力的にみえる理由

 

他人の目を気にしないで自分のやりたいことにどんどんチャレンジしたり、できることが増えたり、知らないことを知ったり、年齢問わず変化を恐れない様子は人を魅了する

 

他人の目を気にするのはとてもエネルギーを使う。こんなことしたらあの人にどう思われるだろうか。こんなこと言ったらみんなに「お前なんかが」って思われるんじゃないか。

「あの人は大したことないのに偉そうにあんなこと言ってる」そういう風に他人のことをジャッジしてるから、言いたいことも言えず、やりたいこともやらなくなる。ほんとはあなたは「羨ましい」という嫉妬心で胸がいっぱい。

 

他人の一挙手一投足を見張るように牽制し合うのはなんて無駄で愚かなエネルギーの使い方なんだろう。そうは思わないだろうか。他人がなにかあなたの気に食わないことを言ったりやったりしていることで、あなたにどんな損失があるのだろうか。何かを壊されたのだろうか、何か奪われたのだろうか。きっと刺激されるのはあなた個人の羨ましいという気持ち。

ならば、やればいいし、言えばいいし。それができないなら他人を見張るのをやめればいい。でも、その自由な他人を否定することでやらない言わない自分を肯定して、自分をヨシヨシと慰めているんだよね。可哀想に。

 

自分の理想は高く。他人に褒められたって非難されたってそれとは無関係な、自分だけのゴールがある。そこに向かって一心にひたむきに向かうんだ。

苦手なことで好きなことができるようになるのが一番満足度高い。苦手なこともできるようになるまで量をこなせばいつか自分のものになる。

酷い出来でも、下手でも、なんでもいいからとにかく生み出し続ける。

あなたは他人を消費し続けるのではなく、あなたが生み出す側になるとあなたは結果的に人を魅了する。他人を見張って消費してる場合じゃない!人生損してる。

創造の、あなたから生み出されるものは世の中を豊かにする。あなたからしか生み出されないものも確実にある。

それには大量のアウトプット。もっと「狂気」が必要。生み出すものは、アイデアでも、作品でも、なんでもいいけれど。

「執着」と言われる領域まである一定期間徹底的にワンテーマだけを考え続ける。とか、ハマり続ける。自分の中で何か突き破れる瞬間が訪れるまで夢中になる。

そうすると何かがころっと小さく生まれるときがある。1万の駄作を生み続けてるうちになんかの拍子にころっと出てくるんだ。それはとても尊いもの。他人の評価からは無縁なところで心底湧き上がる喜びを感じるだろう。

そんな体験を一度でもしてみたら、他人にかまってるエネルギーがいかに非生産的で無駄なことだったかがわかる。

暇を持て余してる場合ではなくなるだろう。自分に忙しくなる。暇をしちゃいけないよ。それは常に動き回って止まるなという意味ではなく、他人の人生にちょっかい出してないで自分の人生を楽しむということ。

他人にかまうのと他人に気を配るのと、空気を読むのは似てるようでまるで違う。マナーや常識や道徳を盾にして、他人の揚げ足取りや足の引っ張り合い、無意味な自粛…そう言ったものはあなたの人生から即刻排除した方がよい。

そして、そういう人を自分の半径5メートルでいつまでも飼ってないで、0.1秒で距離をとること。距離をとるかとらないかも一瞬で決めてすぐに自分のやるべきことを再開した方がいい。

表面張力を突破して、消費者、被害者をやめて生産者に。

かさこさんに自分の本音をひきだしてもらった

 

かさこ塾に入って私は変わった。かさこ塾は単にブログ術やセルフブランディングのノウハウを教えるだけの塾ではない。

かさこ塾の4回の講義中に出される宿題を元にかさこさんから個別にアドバイスをいただく。

 

私は自分が何者なのか、何をしたいのかってことがかさこさんのアドバイスにより自分の本音に気付かされた。

 

以下はリアルにかさこ塾に通ってるときにかさこさんとやりとりした私からのメール原文。自分のプロフィールを書く宿題だったかと思うのだけど、それを書いて一回目提出したら端的に言うと「サラッとしていて情熱が伝わらない」的な指摘をかさこさんから受けて書き直したときのメール。

書き直してみました!

 

私はこれ以上苦しみに溺れている人を見ていたくないのかもしれません。
こっち側に来てほしい。
環境じゃなくて自分の視点が変われば世界は変わる、その方法はダンスなんだ!と訴えたいのかもしれないと思いました。

でも、なんだかそんな強すぎるというか私の底を脈々と流れるこの想いをたったの一言で表現できないし、
抱えている側だったときは重すぎて、人になんかこの荷物を背負った自分を託せなかった。。
だから「癒し」や「セラピー」なんて言葉を容易に使いたくないのかもしれません。

相手がセラピストやカウンセラーじゃなかったから入っていけたんですよね。

本当に抱えている人間は安易に助けを求められない。

本当は児童養護施設に入っている子供たちにカンパニーにはいって欲しいです。
お金にならないけれど、すごく途方もなく大変だということしか目に見えないけれどでも本当はそれをしたいです。
親というバックボーンがない人生は児童養護施設を退所した後の人生は想像もできない程酷く険しいです。
そういう子を雇用できるくらいにお金持ちになりたいって思ってました、よーく考えたら笑

自分の子もまだまだで…まず、自分の子と自分の面倒見れてからの話だと思って胸に封じ込めていたけど
本当はそう思っているんです。大それたことを思っていて言っちゃいけない気がしてます。

なんだか、ここ数日で私は本心では
愚痴ばかり、不満ばかり、嘆いてばかりの中年のおじさんおばさんは眼中にないんだなって思っちゃったんです。

セラピストと名乗って「わたし可哀想ごっこ」には付き合えないと思っちゃいました。

そこに自分の存在を見い出していて、
いつまでもそこにいたくて全くもって現状を変えたくない人ばかり。
もちろんそうじゃない方もたくさんおられて、
大人のバレエ教室もダンスカンパニーも私から来てくれる人を制限する気もないし
そこはブレていないのですが、自分に隠していた想いはあったな〜と最近思いまして。

と、書いていたら初っ端からこのプロフィールも何もかもやり直しですけど

ぐるぐるしていて、また振り出しに戻ったようなことを書いてしまい
面倒くさいことしてて、すみません。

でも、自分を分かったような気になっていて
全然ちゃんと考えてなかったんだと分かりました。

かさこ塾に入らなかったら、こんな本気で自分が何をしたいか何ができるかを考えなかったです。

25歳の小娘が何を言ってるのかと思われたくないって思って言えなかったけれど
そういう子達に、今、抱えている痛みは持っていて悪いもんじゃないって
それが強みに、人に希望を与える力になることもあるんだって感じてもらえるような
カンパニーにしたいです。ただアホみたいに躍れれば満足な訳じゃないんだと気付きました。

もうちょっと、グダグダですけど、えい!っと送ってしまいます笑

 

当時、まだ私ってこんなにグダグダ言ってたんだな〜と。こうして自分の殻を破って出てくるみたいな作業をかさこ塾に入ってやっていたみたい。

 

初々しさがある。こういうのは忘れちゃいけない。どんな思いで始めたのか。

 

かさこ塾ってそんな塾です。

http://kasako.jp/event/

10年間先送りにしてきたやりたかったことを今年やると決めた

 

やはり、今年こそどうしてもNYに行きたい。

今年の秋口あたりに行きたい。

できれば家族みんな連れて。

 

行きたいダンスクラスを調べよう。NYのどこかでショーが出来ないかアポをとってみよう。日本で、今、ここでできる限りの事をしてみよう。

 

やっぱり今一番したいことって何だろうと考えると、NYに行くことなのだ。

 

でも、あなたも「今、一番したいことは何?」って聞かれて、一番を答えられる?一番したいことが現状難しいことであればあるほど「一番」ではなく「できそうなこと」の中の「一番」を答えてしまいがちではないだろうか。

 

私もいろいろ産休の動けない間に自問自答した。かなりグルグルと考え巡らせている。でも、わかったことは「やっぱり行きたい!!!」ってこと。

 

そのための手段とか、可能性を考えると気が遠くなりそうで、先送りすることが無難なんじゃないかって思う。

 

そうしてきた10年間なんだ。

ずっとタイミングは「今」じゃないんじゃないか。いつかそのタイミングがやってくるはずだって思ってたら10年も経ってしまった。

 

だから、今年は本当に行くと決めた。

 

あなたのしたかったけど、ずっと先送りにしてきたこともまずは「いついつまでにやると決める」ことからスタートなのかもしれないよ。

大きな夢を描く特別な俺は迷惑

 

 

そんなの無謀だ!できるわけない!人生甘くない!

ちゃんと将来のこと考えてるのか!

 

夢を語るとそんな風に多くの人に反対される。無理だと言うその人たちは夢を描き挑んだことがない人たちだ。

 

だからね、人生一度きりやってみた方がいいって私もそう思ってた。

 

だけど、それは違うなぁと思う夢の描き方をする人たちもいる。夢というのは今この認めたくない自分から逃げるために描くものじゃないんだ。誰かの生き方を否定するために語る夢なんて叶うわけない。

虚勢を張って、強がって、頑なな夢は叶わない。

だから、周りから猛反対を受けている。でもね頑なな夢を描く人にはその反対はむしろ栄養になりがちだ。「毎日毎日同じことのつまらな人生を生きてるお前らには俺の崇高さが理解できないだろう」とさらに孤立していく。

 

あのね、夢は孤立したら叶わない。あなたの夢があなただけのものでなく、あの人にとっても、この人にとっても、その子にとっても、叶いたい夢になったときに叶うのだ。

だから金メダリストもどう考えても本人の頑張りがあってこそなのにインタビューで「支えてくれたみなさんのおかげです」という言葉が自然にでてくるのだ。自分だけの金メダルじゃないって本当にそう思っているんだよね。

 

頑なな夢を描く人にはそれがきっとわからないだろう。俺以外敵になっている。みんな分かってくれない。俺はサラリーマンには向かない、平凡な人生なんて生きてて楽しいのか俺には理解できない。

 

夢を叶えたきゃ、口より手を動かすことだ。屁理屈こねるための頭より足を動かして、結果を出せよ。出せないのは周りが悪いんじゃなくてあなたの才能がないんだよ。本当に叶えたい夢じゃないんだよ、その夢は。

「夢を描く周りとは違う特別な俺」に夢見てるだけだから早く目を覚ませ。

 

現実を見ろ。理想と現実の差は歳おうごとに開くばかりだよ。勝算のないビックマウスは迷惑だよ。

 

有言実行や予告ホームランっていうのは、打席に立ったときだけ本気出せば打てちゃうものではなくて、人に見えないところでうーーーーーんと仕込みをしてるんだよ。むしろ準備こそ全てなんだよ。見えないところでうんとやってるんだよ。

地に足がついてるどころか、地中奥深くまで根を張っているくらいに現実と向き合わないと大きな夢は描けないんだよ。

 

だからこそ、私は夢を見ろ!って若い子たちに伝えたい。

本当に賢い人は相手の言葉で語る

 

知能が違いすぎると話はほとんど通じていない

知能に差があると何をしてるのが楽しいことで辛いことなのかすら全く理解できないくらい異なる。頭のいい人と残念な人の間には大きな大きな溝があり「生きてる世界が違う」という表現がぴったりなほどに歩み寄れない。

これは良いとか悪いとかの話じゃなくて、そういう事実があるって話。

非難にもならない、本当に理解不能な世界なのだ。

 

残念な人は権力主義で頭のいい人は実力主義の中で生きているし、残念な人は知識の量を頭の良さだと思い、頭のいい人は推論する力を頭の良さだと思っている。残念な人は他人にどう思われるかによって人生が左右され、頭のいい人は自分が何をしないかによって人生を決める。

 

意味がなくてもお金や地位や名誉のために動けるのが残念な人で、お金が動いてもそこに意味がないと動けないのが頭のいい人。人生や仕事の喜びも上記に深く関連する。だから行動の動機や見ている先が全く違う。

一事が万事。

挙げればキリがないほどに、両者がそれぞれ認識する世界と絶対的な価値観に大きな隔たりがあるので互いを理解し合おうとするとフラストレーションがたまる。不毛。

 

そもそも「話し合ってわかり合う」は幻想だ。わかりあえたと思っているならば、それは相手が分からないように折れてくれてるだけだ。

と、距離をとるのがそこそこな人とそこそこ頭のいい人たち。

本当に賢い人は相手の言葉で話す

頭のいい人ができないことは残念な人の言葉で話すことだ。「本当に頭のいい人」はあんまり頭がよさそうに見えない。

あえてリテラシーを低く落とした話をしているからだ。自分が賢く見えることよりも相手を動かすことをあっさり優先できる人たちが本当に賢い人だ。

 

それに何より生きてる世界が違う人たちの脳みその中で話せるって相当頭がよくないと無理。まずもって「まさか」や「ありえない」や「絶対」「当たり前」は存在しないと思える柔らかさが必要。頭の柔らかさと心の柔らかさ。

 

自分の頭で考えず、相手の頭の中で相手の言葉で、自分の伝えたいことを話すってなんて高度なのだろう。

 

そこそこ頭のいい人にはそこそこ頭のいい人たちの好む言葉、好む価値観で。

残念な人には残念な人たちの好む言葉、好む価値観で。

そうして相手に合わせられ、かつそのように「合わせている」と悟られない人が本当に賢い人である。

 

見えてる姿が全てではないという当たり前の事実

あなたの前に映る相手の姿や見聞きする発言がその人そのものではないという当たり前のことを分かってない人は多い。

そう、この「当たり前」があなたには「当たり前」でないことまで含めて世の中のいろいろは発信されているのだ。

カリスマ的なリーダのいる組織が崩壊するよくある理由

 

No,2争い

カリスマ的なリーダーのいる組織が崩壊するよくある理由は「No,2争い」である。

そういった形の組織はNo,2選びには細心の注意を払った方が良い。

 

「自分が一番頼られている」

「リーダーの次に偉いのは自分だ」

「(あわよくばリーダーの座を狙いたい)」

カリスマリーダーの元には人が集まりやすい。が、こうした熱狂的なNo,2狙いの人間も寄せつけやすい。なぜか、こうした人たちは「他人をコントロールできる」と思っている。

カリスマリーダーは人を動かすのが得意だけれども、それは扇動しているわけじゃなく、ましてや支配・洗脳しているわけでもない。でも人はそのリーダーの話を聞き自ら動いてしまう。だからカリスマなのだ。

 

先導者と扇動者

皮肉なのだけど、チヤホヤされたい人間はチヤホヤされず、チヤホヤされるのが苦手な人間はチヤホヤされるという。

人を従えたい人には人は従わない。

リーダーには先導者と扇動者がいると思う。

 

人はどうしたら動くのか…「恐れ」「不安」「欲」を使って煽ることで人を動かすのか。

道を先導していくその姿に惹かれて人が動くのか。

 

カリスマと言われるリーダーって、先導者なことが多いなと思うのだ。先導者に見せかけた扇動者だった場合はそんなに長いこと続かないのと、付いていっている人間が次第についていけなくなるか、ついていかなくなるので長いこと見ていると分かりやすい。ついていく人間の原動力は恐れや不安、欲によるものなのでいつかは底をつくからだ。

 

先導者だったのに組織が崩壊することもよくある。それはリーダーが組織に頓着しなさすぎたことにより扇動者なNo,2に気づいたら荒らされていた場合。

これ、ほんとよくあるなーって思う。

 

リーダーの前でだけ態度が違う人には注意

リーダーの前ではいい顔しか見せない。気に入られようと必死な感じが伝わってきたら少し注意して観察した方がいい。

リーダー以外の組織の人間には偉そうな態度だったり、自分がいかにリーダーに信頼されているかとか、自分と周りとの待遇の差みたいのをつけだしたら…

容赦なく切るべき。組織のために。

 

そこで切ると言う判断をくだせないリーダーはリーダーの度量はない。むしろ、リーダーの大事な仕事ってそれなのではないかと思う。

 

No,2を狙うものが増えて争いだしたら、全員さよならだ。たとえ一人になっても。間引きだと思って。

 

なぜかというと

「人を従えたい」

「優位に立ちたい」

そういった感情を持ってる人はコミュニティにおいてガンなのだ。「悪い人じゃないんだけど」っていくらでも妥協したくなる余地があるけども、そこを断つのがリーダーの仕事。

 

人の上に立つことで、劣等感を埋めるような在り方は自立していない子ども大人のすることだ。他人はそのために存在しているんじゃないでしょ。助け合うため支え合うためなので、そもそもそれができない人が人をまとめるのは大事故になる。

 

みんなを事故に巻き込んでしまうその重大性をリーダーはよく認識すべきだ。断つことは怖い。嫌われるし、冷たい人間だと思われるかもしれない。でも、それをできるのはリーダーだけ。みんなを守れるのはリーダーだけだ。

 

謝れない大人と空っぽの「すみません」ばかり言う大人

 

未だ、手間暇かけることが愛情の証って宗教のように信じていたり。それは長時間の残業がイコールいい仕事したって思い込んでいるのと似ている。

極端な自然派子育て。界面活性剤がどうちゃらこうちゃら、化学調味料がうんたらかんたらと嫌う人たち。

生産性や効率化とか、お金の話やテクノロジーの話も排他的である。そういったものに恐怖を抱き、変化を嫌う。

 

それってどうなんだろうか。

懐古主義で昔は良かったって昔の中に生きる。クレヨンしんちゃんの映画みたいだ。

 

保育園や小学校はまだまだコストカットできるはずなのに、手間をかけることが愛という解釈なのか、なんなのか…本当に今の時代の波に乗っかって生きているタイプの親からしたら、無駄ばかりでやってられない!と感じることばかり。

 

なのにも関わらず、大事な子供のケアというものはだいぶ置き去りに感じてしまう。基本的に何もかもがポーズなのだ。

子供なためという手作りの壁飾り。

子供のためという大人による喧嘩の仲裁。

本質はどこにあるんだろうか。見るべきものは本当にそこでやるべきこともそれでいいのだろうか。

 

教育機関や先生、保育士を責めているんじゃなくて、このシステムどう考えても時代遅れじゃない?って言いたい。先生や保育士がどれだけ大変な仕事か分かってるのか?と言われてしまいそうだが、それはかなりの的外れ。

 

誰の何のための仕事なのかって子供なのにも関わらず、当然のように子供の喧嘩に介入するのは、保護者の目を気にしているからでしかない。

モンスターペアレントと言われる人たちがいるのも知っているけど、そんな風に親がよく子供の話を聞くこともせずに相手の親にぺこぺこ口だけ謝る姿を子はどんな気持ちで見ていて、そしてそこから何を学ぶのか…そんなことは先生たちは考えないのかな。

 

何の目を恐れてるのか、親や先生がその目を恐れて翻弄されて生きている姿が子供にとっては一番の教科書になってしまっている。

 

口で何が良いことで悪いことなのかをいくら説いても、やはり大人のその背中から子供は一番学んでいる。とってもよく見ている。

 

ちゃんと謝らない大人が意外に多くて、先日もいい年したおばさんに「まず謝罪が先ではないんですか?」と話した。いつまでも自分にいかに非がないかばかり言い訳して、悪いのはウチのマネージャーだと。いや、知らんがなオタクの事情は、こっちはそちらから商品を購入しているお客でしかないんだから。

 

大人でも謝らない人が多い。

謝るべき時にちゃんと謝ること。

それから謝らなくていい時にペコペコ「すみません」とポーズで謝りすぎなこと。中身のないその謝罪が嫌いだ。

 

私に相手の親に謝れと言ってくる担任の先生もやたら「すみません」と言う。何が「すみません」なのか。頭をちゃんと使って言葉を話してほしい。

 

ウチの子供は国語が苦手だけども、テストで10点でもいいから、中身のある言葉を話せる人になってほしい。

 

頭も心もすっからかん。

ギュッギュッと中身を詰めるには、生きるって痛いのだ。

たらればばかり言ってる暇があったら今すぐ着手せよ

 

ダメだ…わかってるのに「たられば」ばかりで何も結局してない…なんてことになってない?

いつになったら動き出すのだ。

〇〇したら…とどんどん先送りにし、〇〇してれば…と過去ばかり嘆いて、結局あなたはいつを生きているのか。今だろ!

バッターボックスに立たずに、試合には出ず、ベンチからあーだこーだと言ってるだけ。いざとなったら闘えると思ってるでしょーけど、みんながすり傷作りながらも闘ってる間サボっていた代償は大きいよ。闘え!試合に出ろ!

 

とはいえ、今は動けるときではないのだよね。休むときなんだよね。あぁ、そうこうしてる間にあの子もその子もどんどん先に進んでいく。と、焦りも感じるよね。だからこそ、口をついて出る、「〇〇したら」という自分への誓いの言葉。

 

いいんだよ、そんな風に予防線張らなくても誰もあなたを見捨てない、見下さない、見限らない。それより何より、あなたがあなた自身を、「〇〇してなければ」「自分を認められない」「自分を許せない」「自分の価値を信じられない」ってことなんだよね。

 

そう思ってしまうのも分からなくもないけど、そんなに頑張りすぎなくてもいいんだよ。肩の力を抜いて、ゆっくり呼吸して、空を見上げて。笑って。

 

やるときはやるときで、やらないときはやらない。シンプルなことなんだ。〇〇したらやるなんて言わないで、やるかやらないかでいいんだよ。

 

闘うのかベンチで休むのかハッキリしろ。ハッキリと自分で納得しないといずれにしろ後悔するんだよ。

 

中途半端に「やれる私」を演出して自分の首を締めるのはサッサとやめてしまえ!たられば言ってるのが一番ダサいし、しんどいよ。

 

スッキリ、はっきり、つまりなく。

 

 

今を生きてる私たちにできること

 

私には黙祷したり、冥福を祈ることができない。

 

みんなが祈るこの日にそれができない私ができることは唯一、せめて今を精一杯命輝かせて生きることでしかない。

 

おこがましいというか、私の祈りなど大切な方を亡くされた方を目の前にしてはあまりに無力すぎて、その場から消えてなくなりたい気持ちになってしまう。

 

どれだけの深い哀しみなのだろうかと…だから私は今日を楽しく過ごした。忘れないって大事なことなのかもしれない。でも、思い出したくもない今日だという人もたくさんいるのだろう。

 

私が母を亡くした哀しみをどう乗り越えたかって、忘れたからだ。命日がいつだったか忘れてしまった。そのかわり、母の何気ない仕草やどうでもいい他愛もない会話は今も鮮明に覚えている。

 

母の葬儀の日、そこの葬儀のスタッフの方に個人的に語られたことがあって、それが今も深く胸に残っている。

 

「残された者が明日をしっかり自分の足で生きていくことが、お母さんの何よりの供養になるんだよ」ってそう言われた。

 

早すぎたことにはかわりないけど、子よりも親は先に亡くなるのは順当で、でも、例えば母にとって内縁関係にあった方や母の母などは悔やみきれない。私たちにとっても母はたった一人の存在ではあるけれども、彼らが明日を生きるには彼らがちゃんとここでお別れしなきゃならないんだととてもゆっくり私をさとすように葬儀社の人に言われた。

 

葬儀は彼らのために行うものだった。

参列者の代表的なことは彼らが行った。

納得がいかないとかそういう風には思わなかったけど、人が亡くなることについていろいろと考えさせられた。でも、当時まだ中学生や高校生の弟、私も19才である実の子供の私たちにとっては接待をするだけの母の葬式でどう哀しみと向き合っていいのかわからなかった。

 

哀しみきるということが実はとっても大事なんだ。それは外部の人間がいくら冥福を祈ったり、なんだりって入れる隙間は無いような気がするのだ。私は母の人生の中で一番長く濃い時間を過ごした人間なんだなということに後になって気がついた。

 

何を言いたいのかわからなくなってしまったけれども、時々思い出しては今でも泣いている。ママが死んでしまって悲しい。生きていて欲しかったな。8年経つが、やっと、悲しい、寂しいって思えるようになった。

 

だから、きっとたぶん津波で大切な人が流されてしまった方達にとっては忘れたくても忘れられない今日なのだろう。

 

 

じゃあ、今、生きている私は、

 

いい人生だったと笑って死ねるくらいに精一杯生きていくよ

そう母に誓った。

母の分も幸せになると決めた。

 

 

人生長けりゃいいってもんでもないけど、やっぱりなるべく長生きすべきだよ。元気にね、健康でね。

濃くて短い人生なんかよりも、やっぱり生きていて欲しいよ。無茶しすぎないで、自分の命は守って。

 

どんなに濃くてすごいドラマチックな人生だったとしても早死には哀しいよ。命は守ること。攻めた人生、バッチコイ!って思ってるけど命だけは守るのだ。

 

生きててなんぼ。

生きてりゃそれだけで十分だ。

あなたはどんな人生を生きますか。

客というよりお仲間ばかりのイベントは行きにくい

 

内輪感がキツい

内輪のイベントや公演、ライブがいけないわけではないが、一般向けにチケットを販売していても行ってみると観客はみんなお仲間。終演後も招待してくれた出演者に挨拶しにくい…という舞台、イベントは結構ある。みんな生徒さんだったりお仲間なんだなって。それと作品の良し悪しは関係ないと言いたいけれども、やっぱり疎外感というか、なんか居心地の悪さみたいのは感じてしまう。

大したことではないけれども、2回目誘われた時はやっぱり何が何でも観に行こうとは思わなくなってしまい、気づくと足が遠のいていたりする。

義理で行かねばならないという無言のプレッシャー

内内で集客している人にありがちなのが、「行ってやったんだから来てくれるでしょう?」という無言のプレッシャーの掛け合い。観に来てくれたから観に行かなきゃとも思いたくない。感想も気を使う。イマイチだったなってものも「よかったよ〜!」って言うことで小さなことだけども自分の感性が狂っていくかもしれないのが嫌。それから、同業だと本番は土日祝祭日にかぶることが多いので、被ってしまうと全然人を呼べなかったりする。仲間内で行ったり来たりと言うのは業界的にもクローズされて縮小していってしまう。

もっと外へオープンに勝負していく必要があるように思う。

なんせ、新参者はお仲間ばかりが集う公演やイベントには本当に行きにくいから!上っ面の仲良しこよしでやっているとプロ意識もクオリティも低下していく。馴れ合いだ。

誰のためのイベントなのか明文化せよ

内輪で楽しんでいて、外部からお金を払ってきた者を置き去りなのならば、もうそんな公演やイベントやめてくれって言いたい。最初から自分たちが楽しむためのイベントですって言い切ってくれればいいのにって思う。プロ意識の問題で、誰が楽しみを消費しているの??って話。イベントごっこ、公演ごっこに付き合わされるこっちの身にもなってほしい。

ホスピタリティって本当に重要だなと思う。手を回しきれなかったイベントも私も過去にはあったし、今も荒削りだと言われてしまうときもあるが、クレームはまだいただいたことがない。それは、もてなそうとか喜んでもらうことに一貫して運営しているからではないかと思う。スタッフから、アシスタントできた人にもそれは全員に認識してもらって言動を統一してもらう。実際に観客の前に姿を表さないようなその日限りのスタッフにもその気持ちは持ってもらうことにしていて、ダメなら申し訳ないけどその場で帰ってもらう。

私が教わった踊り子の心

私はバレエを礼儀に始まり礼儀に終わると言うような、ちょっと昔の人っぽいとても堅い師匠に教わり育ててもらった。舞台上だけ綺麗に澄まして姫を演じても、根っから高貴で上品な姫にはなり得ない。舞台から降りているとき、誰にも見られていないときが踊り子として大事なときだ。稽古場で踊れればいいわけじゃない。舞台で踊れればいいわけじゃない。もっと誰にも見られていないときに踊り子としての差がつく。

だから幕が開く前とか、小屋入りする前とか、それよりももっともっと前の段階でお客様と接触する前からもすでに舞台は始まっていると思って舞台に当たっている。礼儀礼節って本当に大事だと私は思う。まぁそんなにきっちりきっかりピシッピシッとしているわけじゃないけれども。

でも見ず知らずの他人様にお金いただいて踊りを観にきていただくっていうのはそういうことなんじゃないかと私は思う。