あなたも私も見えている

何が見えているかっていうと、自分のベストチョイスが、です。人生は選択の連続だと思うのですが、自分の未来というのは小さな選択をうん万回とした先に現れるものです。

人生の岐路や転機など、進路を決める大きな分かれ道だけが人生の選択ではないですよね。今日、二度寝をするかしないか、何を食べるか、いつ食べるか、誰と過ごすか、いつ寝るか。そういう些細な選択が、自分の習慣、環境、言葉、性格、キャリアなどに繋がっていくのだと思います。

ここまでは誰でもなんとなく想像のつく話だと思います。私が今日話したいのはこの先の話です。

私もあなたも、自分の未来が見えているって思うんです。本当は。些細なことでも自分のベストチョイスを繰り返した先には今の自分からは考えられない自分になっている未来があります。

私は10年前は閉鎖病棟で一生を終える選択しかありませんでした、現実的には。でも見えていたのはもう一度返り咲いた姿の自分でした。

20年前は虐待を受けていて食べるもの寝る場所、よくありませんでした。不安定な環境にいました。でも私は大人になったらすごく幸せになるし、安心して暮らせるってなぜか思っていました。

私が私のベストチョイスを常にし続けたのなら、遅から早かれいつかはやってくる未来だってなぜか知っていました。それでも人生は不可抗力で想定外なことばかりがおきます。けどそれにその瞬間だけを、短いスパンで見れば自分の人生に大きな波紋を落としているように見えるんですが、長期のスパンで眺めると私の人生、ビクともしていないんですよね。揺らぎようのない自分がそこにいるからです。

トラウマはありますか。なぜあれだけのことがあって、そんなに清々しくスッキリ生きられているんですか。って以前よく聞かれました。その答えを当時はうまく話せなかったんですが、きっとこういうことです。私をトラウマにさせるほどの事件はきっと起きていなかったんです。トラウマになっている暇はなかったんです。

トラウマになっておきたい理由も私にはあまりなかったので、割と早いうちにトラウマって幻想だと気付きました。傷付けられた自分や壊された自分もいなかったんですよ。それはメンタルが鋼のように強いからってことではないです。

私が私のベストチョイスをしている自負があり、それが揺らがなかったので、何人たりとも私を傷付けることはできないって知っていたのです。たとえ壊されても、復活するし、回復できることも知っていました。

そして、です。そういう自分のベストな選択をし続けていると、そのうち、選択肢の方から私に向かって強く自己主張してくるようになってきます。「これを選ばなくてどうするの」「決まってるでしょ!」ばりに主張してきます。

私はその瞬間、その選択肢はあり得ないなって思っちゃうときもあるんです。というか多いです、ほとんど、マジかよって思うような選択肢です。けど、それを選んでその結果が着手する前から見えるような選択していていいのかって思うんです。考え出したらキリがない、予防線を張りたくなるし、保険もかけたくなります。

でもあり得ない未来のビジョンが見えている時って、選択肢の方からもすごい主張がやってきて、大概そういうマジかよなことだったりします。

未来が見えるなんて、嘘でしょ!?って思うあなたも、あなたのベストチョイスをし続けているとそのうち「あぁ、このことか」とわかる日が来ると思います。

[アイキャッチ画像 : photo by bozzo]

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最強にHAPPYな選択

あなたの毎日の生活、最強にHAPPYな選択ができているだろうか。

世界は思い込みでできているのではないかと最近の私は割と本気で思っている。

3年前に通ったかさこ塾第一回目の講義で12の質問が出された。その一つに100億円あったら何をしますか?という質問があって、私は何も答えが出てこなかった。

今は人生最大の買い物は私自身だと思っていて、私が動けばお金がかかる。

今、この瞬間、究極にHAPPYなシチュエーションをいちいち想像する。その最強に!究極に!HAPPYなシチュエーションは、今現在はあり得ないことかもしれない。でもね、想像すらしないというのは実現することもないということ。

人は面白いものでただひたすらにHAPPYなだけでは飽きるんだ。ある程度、苦痛とか、不満とか、困難とか、そういうのがあってはじめてHAPPYをよりHAPPYに認識できたりする。

面白い生き物だよね、でも本当にその苦難、選ぶほど価値あるかな。ダイレクトにHAPPYを感じる勇気はないかな。

私はその苦難、妥協だったことに気づいた。自分の人生この程度という妥協。このくらいのHAPPYがわたしにはお似合い、と決めちゃっていた。

究極のHAPPYを想像するのも訓練が必要だ。ましてや自己肯定感があまり育たない環境で大人になった人はここ、すごい苦手だと思う。

ついつい不憫なシチュエーションに身を置いてしまったり、幸せ慣れしてなくて距離を置いてしまったりする。

まぁまぁいい感じな人生を歩んできた人も、「最強に」とか「究極の」というパワーワードで自分の人生を捉え直してみてはいかがだろうか。

 

いずれにせよ、これは「社会的から見て」ではなくあくまで「自分にとっての」最強にHAPPYなシチュエーションを想像するのだ。

それはアドバイスじゃなくて呪いだ

よくもまぁそんな簡単に人の言葉を鵜呑みにできちゃうよね。

私思うんだけど、あなたの人生の最終責任を誰がとってくれるかってあなたは考えたことないんじゃないかって思う。でなければ、「あの人がこう言ってたから」ってそんな小さなことで自分の本音曲げないと思うよ。

また最近聞く。「私、本当はこうしたいんです。でも、人はこうこうこう言うので、そうかなと思って悩んでます。」

おう!一生悩んでろ!!って言いたくなるよ。だってさ、そんなんアドバイスでも何でもなくてただの呪い。で、呪いが悪いって言ってなくて、「ただの」呪いなのよ。取るに足らないことだ。

呪いかけてくる人なんてワンサカいる。何なら自分だって自分に簡単に呪いをかけられるよ。

いつまでたっても、どこまでいっても、何があっても、きっとずっと「それはさておき、そこであなたはどうするか」という問いなのだ。

世界の変え方をあなたはまだ知らない。私があなたに呪いをかけるなら、「世界はあなたにも変えられる」だ。

本気ならもう始めてる。私、これに尽きると思うのだけど、でも、大事なことって何かを成し遂げたり、何か新しいことに挑戦したりっていうことではなくてそこであなたは何を感じるかなんだと思う。

本気ならもう始めてるって言葉、私は好きだけど、ある人にとってはやや暴力的な言葉になるだろう。やればいい、始めればいいってそういうことじゃないからだ。それをやってる自分は何を感じるのか、それを始めた自分は何を感じるのか。

外側に惑わされてるだけだからきっとやらないし、始めないのよ。だから、本当はやりたいといいながらなかなかやれないことにも意味があって、それは自分を知る絶好の機会だ。

人のアドバイスなんて、あなたにとってそんな重要ではないはず。格好の「やらない」を選択する理由だったにすぎない。だからその人がそのアドバイスをしなかったにしても、たぶんまた別のところから「やらない」を選択する理由を見つけてきたんだと思う。

「やらない」ないし「できない」。不可能とか、無謀とか、無理とか、全部嘘だからね。ほぼ100%、不可能と言われることは可能なこと。

というか、不可能だろうが何だろうが、やるんだよ。やりたいんだ、その先にある景色を私は見たいのだ。だって私の人生だから。私が決めること。そういう風には思いませんか。最終責任は自分でとるしかないんだよ。

 

絶対だと思っている価値基準を意識的に変えてみる

自ら発信するのをやめたら私は世界との繋がりはほとんどなくなるのかな。それを今の私は怖いと思うのか、ホッとするのか、どうなのか。そんなことを、ふと考えた。

きっと、どうとも思わないような気がする。

私はいつだって、今やっていることは未練なく明日すぐにやめてもいいようにしたいと無意識に思っている。あなたも今日一日いろんなことをしたと思う。寝食以外のことで、特別に続けている類のこと。

例えば、「SNSをみる」もそうだし、「誰かとお茶をする」とか、なんでもいい。それを明日にはきっぱりやめるって想像してみてほしい。どう感じるだろうか。これはどうしてもやめるの怖いと思うだろうか。やめられるもんならやめたいと思うだろうか。それはやめられるわけがないと思うだろうか。

そしてそれはなぜそう思うのだろう。

私はそんな風に自分の今日したことを寝る前に時々振り返る。それは無駄な時間を過ごさないためとか、生産性のある時間、効率よく過ごすためってことではなく。自分の価値基準を変える遊びを楽しんでいるのだ。

どれくらいフットワーク軽く、アグレッシブに変化を楽しめるのだろうかっていう遊び。自然と「これ絶対」という思い込みや刷り込みはできてくる。それを自分で目から鱗!!!って感じの革新を起こすことで世界はより刺激的になる。

脳内世界旅行に近い。私は海外旅行には一回しか行ったことがないけれども、よく海外から帰ってきた人が「価値観が変わった」と言うじゃない?あれを海外に行かなくとも自分の中でできてしまう。するとこれを続けていると、自分にとって絶対的なものにも執着がなくなり、柔軟な意見を持てるようになったり、人と違う意見が言えたりする。そこに執着していないからだよね。

誰かに幻滅されないか、大したことないって思われないか、そんな風に傷つけられるとや奪われること、壊されることに恐怖や不安を知らず知らずに抱いている人って、ガラクタを(本人は超重要なものだと思い込んでいる)必死に抱え込んで身動き取れなくなっていたり、ハリネズミみたいにトゲトゲをむき出しにすることで人に介入されないようにしていることってある。本当は寂しいのに。本当は愛されたいのに。

それは少し前の私なんだけど。肩で風切るようにして、強く見せて世間に負けないように必死に生きていた。何をそんなに必死に守っていたんだろうな。誰から守っていたんだろうと今はとても不思議に思う。だって今は手ぶらでノーガード。

基準を変えながら世界をみてみるのも、なかなか面白い。あの人の大事にしているものを想像できるようになるからね。

毎日未来の自分のためにしていることがある

どんなことでも良いのだけど、未来の自分のために毎日毎日していることがあるととっても心が安定する。

自信のない人やいつも他人の意見に流されてしまう人や優柔不断な人、人の目が気になってしまう人、気分のムラが激しい人などは外側の何かを取り入れるよりも、こうした自分の中だけの沈黙の作業を淡々と積み上げていくのはとっても効果的だと思う。

なぜ毎日がいいのかというと、自分の中だけのリズムが日々の生活に生まれるのってすごく大事だからだ。外側の環境に左右されない自分の安定を保つのに、「毎日」というのが結構重要な条件だと思う。

私は閉鎖病棟に入ったとき、そこは劣悪な環境で、病院とはいえ、病室は6畳の畳の部屋に敷布団8組を重なり合わせながら敷いた…そんな病室だった。糞尿が身体中についてる他の患者が私の布団に入ってきて寝ていたりしても私は強い睡眠薬で眠らされてるため意識を戻せなくて起き上がれなかったり。性欲・食欲・睡眠薬だけが残った形の患者さんたちは目の前でずっと自慰行為をしていたり、なんだかもうほんとしんどかった。

刑務所の方がマシなのではないかと思う。でも、そこで精神安定剤より効いたのは毎日欠かさずにやっていたバレエとストレッチと筋トレ。

奇声が常に響き渡り、悪臭に鼻がもげそうになるような環境下。まともにコミュニケーションを誰かととることもなく閉鎖された空間にいた出れるとも知らず閉じ込められていても、それでも、自分の中に安住の地を作ることができる。

結局、環境に左右されない強さは日々の積み重ねによって生み出されるんだなと。

閉鎖病棟に入ることはそう滅多にあることではないけれども、人生、生きていればみんないろいろあると思う。自分だけのリズムを持っておくのは、セーフティネットのひとつと捉えてもいいんじゃないかと思うくらい大事な自助システムだ。

自分の未来のための積み重ねだから、周りがどんなに絶望的な環境になろうが、自分の中にポジティブな空間を私は創り出せるのだ。

「続ける」って難しいって思うじゃん?でも、こんな風に捉えると何かひとつ自分のために始めてみたくなりませんか?

他の誰でもない自分のために積み重ねるもの。それは子どもや親や、夫や、妻とか関係なく。仕事も関係なく。純粋に未来の自分への積み重ね。一日0.1だけの力でできることを。毎日毎日。

努力や根性という話とは少し違う。だからよーく自分に問う。未来のなってるであろう自分から逆算して、これを積み上げた結果だろうなとシンプルに思えるもの。

もう一つ面白い話をすると、私にとってはあんまり努力とか関係なくて、こういう風に自分のペースを守ることで世の中にのまれて自分を見失うことがなくなる、そういう儀式だったり結界のようなものだ。

粛々と自分に向き合うことで、傷付いたエネルギーを修復して増幅させるような時間。自分の中に集めた立て直す時間。

そうだ、あれに近い。小さい頃、ピカピカのツルツルの泥団子作ってたソレだ。あれは全くもって努力ではないじゃん?整えるってことに異様なこだわりを無意味に持って淡々と取り組む。

そんなものを自分のために毎日持つこと!それには何かをやめて時間を作る必要がある人もいるかもしれない。削って切り替えたら相当いろいろ変化するはず。

結果を出して安心させてあげる

心配されるんだよね。心配とかかわいそうっていう同情って本当にめんどくさいなって私は思ってきた。それはなんでかって言うと、究極私を信じてくれていないんだなってこと。

でも、これ仕方ない。あなたの人生に責任持つほどあなたに信用も信頼もないから。そして、他者への信頼は自己への信頼に比例すると思う。

信用と信頼は別物だと私は思っていて、今、私はどちらかと言うと信用より信頼を得られる人間になろうと思っている。けど信用を積み上げる方がやり方が簡単。信用は何かの条件をクリアすると信じてもらえるってこと。で、信頼は何も条件なく信じてもらえるってこと。条件があるとしたら、「あなたがあなたであること」が信頼の条件。

すごく似ているようで、結構違うのだ。

ダンサーが仕事をもらうのに、〇〇コンクール入賞とか、〇〇バックダンサー出演とか、こう言ったものは信用。私はダンサーだけどもこう言うものは一切積み上げる努力はしてなくて、完全に「大瀧冬佳が大瀧冬佳である」ことだけに注力している。大瀧冬佳の輪郭をハッキリとつけることが、ダンサー大瀧冬佳として生きていく道。そうなると同じダンサーであっても活動する場所はほとんど交わらなくなる。いいのか悪いのかわからないけど。

もう一つ、信用と信頼について話すと、信用金庫とは言うけど、信頼金庫とは言わない。これはわかりやすい。大瀧冬佳であるだけでお金貸してくれるわけないもん。

信頼関係を築くとは言うけれども、信用関係を築くとは言わない。信頼は精神的な繋がりで、信用は物理的・証拠があっての繋がり、意味や意図、目的があっての繋がりな気がしない?なので、ダンスカンパニーUzmeはキャスティングに命をかけているのだけども、信用と信頼の狭間で選びたいと思っている。ギャラの範疇の仕事を最低限してもらえるプロであり、かつ、団長の思いを形にしたいとプラスアルファの力を発揮しようとしてくれる人が結果全員だったなと振り返って思う。

そう考えると、信頼は未来を信じることで、信用は過去を信じることなのだ。大瀧冬佳自身が突けば何が出てくるかわからないブラックボックス感が強いので、その「この人なら何かやってくれるんじゃないか」って言う期待を増長させていくのが大瀧冬佳の仕事。

そして、表題の「結果を出して安心させてあげる」だけども。信用だろうが、信頼だろうが、他人の9割はいずれにしろ信じてくれないよ。「できない」「無理だ」「無謀だ」とあなたの力を信じてはいない。そりゃそうだよね。

「信じる」をほとんどしない人生ってかなり貧しいと思うのだ。信用でも信頼でも「信じる」ができる人って豊かだとは思いませんか?

色々信じられない人の口癖はきっとこう。「どうせ…」「だって」「〜だったら」「でも」きっとネガティブなものばかり。他者に向けるその言葉は100%自分にはね返ってくる。あなたが私を信じてくれないことは別になんとも思わないが、逆にそこまで否定できる心だと、自分をも否定し続けることになってるだろうなって想像する。

だから、私は有無を言わせぬ圧倒的な結果を出していきたい。時にダメな時ももちろんあるけれど、そんな風に頑なそうに見える、「信じられない人たち」も結果が出た時にはあっさり手のひら返して一緒に喜んでくれるものだ。ちょっと前の私はこの秘技手の平返しが大嫌いだったけども、これはきっと「本当は何かを信じたい」、「信じられるものを一つずつ増やしたい」と言う心の底にある願いの裏返しなんではないかと思うようになった。

ダンスカンパニーUzmeのファンは豊かになっていく。それは、とっても未知なことばかりの得体の知れない無名劇団の表現だけをただ信じられる人たちだからだ。

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

謎ブレーキと自由の関係性

日本人は無宗教だっていうけれども、そんなことはない。「ふつう教」だ。

脱・普通化!!!「やりたいことができない」、「やりたいことがわからなくなっちゃう」背景にはふつう信仰がある。

私はふつうよりも非常にアクティブ。行動力があって、飽きっぽいし、いつもなんかしらしている。ふつうよりもエネルギッシュ。だからちょいちょい言われる。「頑張りすぎないで」「焦らないで」「ゆっくりね」「落ち着いて」「よく考えて」

私的にはスーパースロウペースでやっているのだけども、そう言われてしまう。言われすぎて、最近はガンガン推し進めていくのが怖くなって、その他大勢に入ってそのペースを学ぼうとまでしようとしていた。

自分の本心でない謎ブレーキを必死にかけていた。アクセル踏み込みたい気持ちをグッと抑えて、ブレーキ、ブレーキ。

けれども、これ本当にしんどいし、面白くないのでもうやめることにした。

全然私は頑張っていないし、焦っていないし、落ち着いている。よくも考えているけど周りが遅すぎるだけで考えていないように見える。ある程度考えたらあとはやってみないとわからないってことがほとんどだし、考えすぎるとできなくなる。やる気がなくなっちゃう。

そんな風に何かに止められている気がしていたけど、誰も私の行動を止めようとなんてしていなかったことに気づく。ブレーキをかけられてたんじゃなくて、ブレーキかけているのは他でもない自分だったんだ!!!

だから「謎ブレーキ」なんだよ。あなたがブレーキかけたところで、何に誰に一体遠慮しているのかとにかく謎案件!!!

ついつい平均化。ついつい標準化。ついつい普通化。してしまっていないか。人は同じく目が二つと口が一つ、鼻が一つあっても同じ顔は一人としていないように…同じことをしてもどうせあなたはあなたでしかない。それを無理やりふつうにしてみたって、謎ブレーキかけているだけ。

私は、産後まだ2ヶ月の段階でソロ公演の準備を始めて、上に子供も二人いて、一人は今年の春新一年生になったばかりで、私は今年初めてPTAの役員もやっている。けど、別に何か大変な気はあまりしない。大変なフリはしとかなきゃいけない気がしている。人並みにあたふたしておこうという謎なことしてた。

そういうのもうやめちゃおう。

だって誰のためにそんなことしているのかちっともよくわからない。

星が見たい、学校とかやめさせたい。私、もっといろんなところで踊りたい。キャンプしたい。うん。星空の綺麗なキャンプ場をまわろう、踊りながら、子供を連れて、夜は語らいながら、自然の中で静寂を味わいつつ、音楽きいて揺れて、そういう生活したい。

それって、すごいね〜!ってきっと言われるけど、すごくもなんともなくて、自分の本心に従ったまでだよね。誰になんの制約を受けているのか。打算や損得勘定じゃなくて、もっと自分の本心に沿った生き方を提案していこう。

私はこの歳になるまですごく頑張ってきた。もう自分の好きなように、好きなものや好きな人に囲まれて生きていっていいと思う。それを自分に許可したい。世の中の決まりみたいなことがたくさんあったとしても、業界からはみ出したダンサーかもしれないけど、常識人ということよりも自由をとりたいから、その分自分に自分で責任持って生きていけばいいだろう。

時に、自由に生きることは孤独を感じるけど、私はいつだって孤独だった。孤独を知っているから人の優しさを知っているし、人を愛することができる。だから孤独ではあるけども孤立はしていない。それってすごく大切なこと。

自己承認欲求や自己顕示欲を満たすための居場所や、コミュニティーはもう私には必要ないのだ。そこに所属している限りは自由は得られない。し、本音100%でなんてとてもじゃないけど生きられない。折り合いをつけて、割り切っていかないとそこにいられない。その分、楽だろう。

いろんなコミュニティがあって、どのバランスのところにいるのかは自分で選べる。

私も謎ブレーキを器用にかけてそこに属すことができたらいいけども、生まれてから一度もそんな器用なことできた試しがないのだから、諦めよう。ブレーキ外してもっとふわふわ〜っと好きに生きていこうと思う。

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

7/13~
全国ツアー2018スタートします!!!
詳細は後日。

自分が自分であるということ

中島みゆきの「宙船」ってめっちゃいい歌詞なの知ってる??

あれに「お前のオールを任せるなー!」って歌詞があるのだけども、これみんな本当、オールを他人に明け渡しすぎだ。私もやってしまう。意識を外じゃなくて自分の真ん中に集めるのはとっても大事なことだ。

他人とか、お金とか、時間とか、いろんなものに自分を明け渡しすぎていて。それらを、皆やむを得ない事情と、何か小さなアクションひとつ起こしもせずにただただ受け入れちゃうんだ。自分の舵を自分以外のものに任せて、なんで自分を蚊帳の外に放り出しちゃっているの!!!って感じ。当然、寂しいとか悲しいとか不満とか不安とかそういう気持ちになるよね。

おかしいよね??人に気を使って譲ったり飲んだはずなのに、なんであなたの心の中は不満でいっぱいなの??さらに譲ってあげた相手には輪かけて文句言われた日にゃ〜どうしたらいいの私!!!みたいに内心ブチギレてたりしないか。

たとえば、オールを渡しちゃいがちなもの…「お金」「親」「子供」「夫」「妻」「時間」「相場」「みんな」たとえば、自分の願望「あいつわがままなんだよね」って影で言われたら嫌。そうして、あなたの本当はこうしたいっていう願望を引っ込める。その時、オールを持っているのは「みんな」なんだよね。あなたじゃなくて。

「小さなアクションひとつ」でいいんだから。自分にちゃんとオールを持たせてあげて、それで「小さなアクションひとつ」やるかやらないかで全然違うのだ、意識が。自分が全く中心にいない空っぽの自分になってしまう。

その願望が叶うかどうかなんてことは、ただの物質という視点で見たときの現象でしかないんだ。大事なのは目に見えないもので、私はそのとき自分のエネルギーを引っ込めてしまったその自分を深刻に思ってしまう。現象はいずれ起こるのだから、期待せずに忘れておけばいいのだ。それよりも敏感になるべきは、自分の意識。どっちを向いているか、誰が(もしくは何が)あなたのオールを持っているのか。

いろんなもので自分って満たすことができると思うが、一番満ちるのは、自分が自分に還れたときなのだ。自分にオールを手渡せたとき。

 

私はピンとチケット代3,500円じゃなくて、35,000円がいいと降ってきた。人間の言葉言うと、「思った」なんだけど、そのときは本当に空から降ってきた、もしくは地中からムクムク湧いてきた。オールを「みんな」や「いつもお世話になっているあの人」に渡していた私は「え、それ、高すぎない??そんな価値あるの??」「調子に乗りすぎじゃない?」って話になり、え、じゃあ、5,000円くらいにしようかな?これならギリギリきてくれるかな….ってぶれぶれになるのだ。

え、違うよね。これ誰のなんのためにどうして公演なんてやっているの??なんで大瀧冬佳がやっているの??「相場」にオールを持たせていていいの??私がこれだけの価値感じてくれる人にだけ見て欲しい。金額の高い安いで金の亡者的な話じゃ全然ないのだ。

え、それ!?って言うところを攻めていける自分でいたいのだ。予想を上回る大瀧冬佳が私は好きだから、35,000円ってめちゃめちゃワクワクするし楽しいのだ。私、外食一回分の価値でなく、1泊二日の旅行分の価値を提供する舞台を作っているし。

あ、そんなことはどうでもいいの。(↑これは人間らしいいい子ちゃんぶった回答をしたときの答え)ここまで書いておいてなんだけども、自分の気持ちの揺らめき。どれだけ心が振動しているかが大事。それから耳を澄ませば、波ひとつ立たない静けさ、ですよねそうですよねの範疇から脱した、ざわめきが周囲から聞こえる。今はまだザワザワしている、「え?どう言うこと?!」「それでこれからどうなるんだろう」って。

これがね、私が自分の振動数をもっともっと自分の内側に入り込んでいって集中したとき現象が後から遅れて現れる。そのとき石ひとつ投げられてゆらゆら騒めいていた周りのみんなは、私に振動数を合わせだし、共振や共鳴が起こる。次第にその共振が共振を呼び、大きな大きな波紋が生まれるのだ。それが舞台だよ!!!だから人生が変わる舞台なのだ。ステージが変わるの。造波プールに入って揺れないでいるなんて無理でしょ??

なので、まずは他人にもお金にも時間にも自分のオールを渡すことなく、自分に繋がっていられるようにしたらいい。

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

99%でなく100%の力を出し続けること

 

自分はいつかは何者かになれる、やればできるんだと、自分は特別なんだと思っているだけでやれなかった大人の言うことを聞かなくてよかったって28歳になって痛感する。

 

いつもいつも大人からの説教が私は聞けなかった。どうしても胸に響かなかった。それはなぜなのか、今ならわかる。なぜかって、そいつら全員やってない人たちだったからだ。22〜28歳までの間に5速までギアを上げきれたかどうか、あなたのベストは尽くしたのかと言うと、そういう人たちってやっぱり中途半端なんだ。

成し遂げられたかどうかの結果よりも、やりきったのかどうかが大事で、出し切れなかった人、余力を残してしまった人、は、いつまでもいつまでも「本当は〜だったかもしれない」とずっとたられば話をしてしまうものだ。

 

できる奴より、やってる奴が強い。言い訳してやらないまま大人になってしまった人が実は99%なんじゃないかって私は思う。そして、そういう人に反発してああいう大人にはなりたくないって言いながらあなたも同じ道を着々と歩んでるんだよ。

なら、やりなよって。何があったらやり始めるのか。何がなかったらできるのか。調べたのか。やれる道を血眼になって探し尽くしたのか、やってみたのか。

一つもできないことなんてなく、飽和するほどにやれる手は出揃っている豊かな時代なんだ。あとはあなたがやるかやらないかだけなんだ。

 

できると思ってた明日はどんどん遠ざかる。その時が来たらあげられると思ってたギアはどんどんと錆びて重くあげられなくなっている。ハッとある日気がつくんだよ。やれたはずなのにやらなかった今日をみんな、若手に託すけどね、若手からしたら「お前がやれよ!」って思うし、その若手もまた言うても、やらないのだ。

私は常に自分の100%の力を出し続けてきただけ。70%でも80%でもダメで、99%じゃなくて100%の力を出すこと。やれる手は全て打つ。ただそれだけだ。それをやってる人を私は生涯で見たことがほぼない。

明日があるって思ってるからだよね。

今日、今、この瞬間に自分を信じて、かけられない私に明日なんかないのだ。

やっぱり、私はやりきって死にたいなって思う。目標や夢や達成したいことなんかなくたっていい。ただいつかなれると夢見たまま、最期自分に失望して死にたくない。

 

他人にかまうエネルギーは使わず自分に忙しい人が魅力的にみえる理由

 

他人の目を気にしないで自分のやりたいことにどんどんチャレンジしたり、できることが増えたり、知らないことを知ったり、年齢問わず変化を恐れない様子は人を魅了する

 

他人の目を気にするのはとてもエネルギーを使う。こんなことしたらあの人にどう思われるだろうか。こんなこと言ったらみんなに「お前なんかが」って思われるんじゃないか。

「あの人は大したことないのに偉そうにあんなこと言ってる」そういう風に他人のことをジャッジしてるから、言いたいことも言えず、やりたいこともやらなくなる。ほんとはあなたは「羨ましい」という嫉妬心で胸がいっぱい。

 

他人の一挙手一投足を見張るように牽制し合うのはなんて無駄で愚かなエネルギーの使い方なんだろう。そうは思わないだろうか。他人がなにかあなたの気に食わないことを言ったりやったりしていることで、あなたにどんな損失があるのだろうか。何かを壊されたのだろうか、何か奪われたのだろうか。きっと刺激されるのはあなた個人の羨ましいという気持ち。

ならば、やればいいし、言えばいいし。それができないなら他人を見張るのをやめればいい。でも、その自由な他人を否定することでやらない言わない自分を肯定して、自分をヨシヨシと慰めているんだよね。可哀想に。

 

自分の理想は高く。他人に褒められたって非難されたってそれとは無関係な、自分だけのゴールがある。そこに向かって一心にひたむきに向かうんだ。

苦手なことで好きなことができるようになるのが一番満足度高い。苦手なこともできるようになるまで量をこなせばいつか自分のものになる。

酷い出来でも、下手でも、なんでもいいからとにかく生み出し続ける。

あなたは他人を消費し続けるのではなく、あなたが生み出す側になるとあなたは結果的に人を魅了する。他人を見張って消費してる場合じゃない!人生損してる。

創造の、あなたから生み出されるものは世の中を豊かにする。あなたからしか生み出されないものも確実にある。

それには大量のアウトプット。もっと「狂気」が必要。生み出すものは、アイデアでも、作品でも、なんでもいいけれど。

「執着」と言われる領域まである一定期間徹底的にワンテーマだけを考え続ける。とか、ハマり続ける。自分の中で何か突き破れる瞬間が訪れるまで夢中になる。

そうすると何かがころっと小さく生まれるときがある。1万の駄作を生み続けてるうちになんかの拍子にころっと出てくるんだ。それはとても尊いもの。他人の評価からは無縁なところで心底湧き上がる喜びを感じるだろう。

そんな体験を一度でもしてみたら、他人にかまってるエネルギーがいかに非生産的で無駄なことだったかがわかる。

暇を持て余してる場合ではなくなるだろう。自分に忙しくなる。暇をしちゃいけないよ。それは常に動き回って止まるなという意味ではなく、他人の人生にちょっかい出してないで自分の人生を楽しむということ。

他人にかまうのと他人に気を配るのと、空気を読むのは似てるようでまるで違う。マナーや常識や道徳を盾にして、他人の揚げ足取りや足の引っ張り合い、無意味な自粛…そう言ったものはあなたの人生から即刻排除した方がよい。

そして、そういう人を自分の半径5メートルでいつまでも飼ってないで、0.1秒で距離をとること。距離をとるかとらないかも一瞬で決めてすぐに自分のやるべきことを再開した方がいい。

表面張力を突破して、消費者、被害者をやめて生産者に。