魔物がそこにいる

うちにはテレビがないが、それでも暗いニュースばかりが耳に入ってくる。テレビしかこれといった娯楽がない生活をしていたらどれだけメンタルやられるんだろうか。いやもう、ワイドショーを見ていると感覚が麻痺してくるんだろうか。麻痺させないとやってられないと思うんだ。

日大の話だけど(事件の詳細は知らない)あれの報道のシナリオには「グラウンドに置かれたボールを写し孤独な雰囲気に不安感を煽るように」とか「〇〇を強調させ、恐怖を感じさせるように」なんていう演出がかけられているのが報道。これが事実。真実が報道されてるわけではなくて、私たちは『日本劇場』の観客になって踊らされているってことなんだよね。

真実は自分の目と耳で取材しなければ!と思うのだ。

いろんな痛ましい事件が最近とくだらなすぎる事件が起きすぎではないか。相撲のよくわかんないやつから始まり、日大のやつ、5歳児虐待のニュース、新幹線のニュース、それから公には報道されていないけれども除染した土が全国にばら撒かれると環境省が決定したニュース。

どれもこれも、報道機関側が意図した感情に視聴者をさせるために作った構成や言い回し、みんな作為的な感情を消費しているだけの受け身慣れからの思考停止。だから真実を知ろうという行動を自ら起こせなくなっていっている。

いやいやそんなことはないよって思った人はこちらに問い合わせるという行動をしてみてほしい。

環境省の除染土中間貯蔵施設問い合わせ窓口(0120-027-582)

http://josen.env.go.jp/chukanchozou/inquiry/

謎決定だと思うんだ。私は中卒だし、頭がよろしくないけれども、そんな私でも謎案件である。日本を滅ぼそうとしているのかな。これで、ただただ不安になって「日本やばい!クズだ!」っていっているだけでは何も変わらない。行動に移さなければ、あらゆる危機をある意味で楽しんでいるだけになる。そういう大きな流れに流されてはいけないと思うんだ。

問題を問題と捉えずに、頭の悪い私にも一体これはどういうことなのか説明を受ける権利がある。だって税金払ってるしね。問題ではなく現象と捉えて真摯に向き合うことをしていきたい。で、そういう気持ちになるひとを一人また一人と増えていったらもっといいのではないかと思う。

虐待の件に関しても、児童養護施設に保護したらいいっていうじゃない?あれ、保護した後も色々本当に大変なんだ。私は自分の子供以上に弟の施設関係のことが大変だった。なんでこんな仕組みなのだろうかと…中途半端感、付け焼き刃感半端ない。だから、結局本当の自立に向かうまで本当に大変なんだよね。

保護さえすりゃいいってもんではなくて、なんかそのさきもその子の人生は続いていく。一時的な「かわいそう」という気持ちでは何も解決できない。だから、すごくすごく10年もの間このことについて考えてみても答えは出ない。なぜかというと、これって個人やNPO法人レベルの問題じゃなくて、国家レベルで取り組む問題なのだ。

もっと政治家に近いところで面と向かって意見ができるところにいきたいな。今は大きな魔物のような塊に向かっていく感覚になる。自分が非力すぎて、二進も三進もいかない。でもきっと小さな声を上げていかないとどんどんと魔物は水を得た魚のようにやりたい放題なのだろうなと思う。それは人というよりも巨大権力のような物だろうか。

所詮、当事者意識を持てないことなぞ関心すらない。自分ごとじゃなければ、どうだっていいんだろうなぁ。報道関係者も、政治家も、一般人も一体全体何を見ているんだ。なんのために生きているんだ。お金に蝕まれすぎだ。もっといい仕事に生きてほしい。魂にそった生き方をしてほしい。と、なんか梅雨のこの天気も合間って、ここ最近はフラストレーションが溜まりすぎる。

でも、これは作品中の住人「ガス」の心情である。ワイドショーをみて「痛ましい事件ね><」とか「日本終わってるわね」と言っているだけなのが「ナナシ」である。そんな風に作品にして訴えていくのが我々芸術家の役目だ。芸術は昔から社会の風刺だ。私は魔には技術・魔術・芸術が効果的なんだと思っている。だからそれに沿った仕事、もしくはそれらを行なっている人間の育成、支援に関わる仕事が人間らしいなと思う。

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

人気と信用

ある音楽家が私は好きで、その方の作る音楽は唯一無二で個性きわだつ音楽なのだ。もともと映画館でみたとある映画のオープニングの曲が凄まじくかっこよくて本編よりもその曲が流れるたびに血が沸くような興奮を覚え、曲の方が印象に残った。エンドロールで作曲家をメモって、他の曲も聞くようになった。

彼は相当な変わり者で、ライブなどではMCは手短に「とっとと次の曲にいきます」とか。ファンがキャーッと騒ぐと「うるさい!俺はファンとか嫌いなんだ!」ととんでもないツンデレを発揮する方なのだ。

なんだか、周りを見渡せばファンやお客様に迎合しまくりな人が多い気がするのだ。もちろんファンやお客様あってのことなのは百も承知で、とてもありがたい存在ではある。握手できるアイドルやユーチューバーをはじめとした、「ファンと共に」という形をとる人たちの出現により、これが主流になっているけども、骨太なアーティストが極端に減ってしまったようにも思う。

手なんか届かなくていい、天才、鬼才に私は心が震える。ニコッとなんてファンサービスはいらない。

人気と信用が皆欲しいと思うのだが、ここで一つ考えてみたいのは、歩み寄りや寄り添い、それから与える、用意するという行為だけが人気と信用を作るのではないということ。突き放すとか、壁を作る、逃げる、遠ざけるも人気と信用を作るのだ。これってすごく面白い。恋愛に似ている。

先日「新しいコミュニティの作り方」というイベントに出てきたのだけども、そのイベント云々の話ではなくて…今の時代求められているのが「居場所」「居場所」「居場所」居場所という言葉がたくさん出てきた。居場所がみんなそんなにないと感じるのか。そうした居場所に加わるハードルはめちゃめちゃ低めに設計されている。でも、熱量を高くするにはどうしたらいいかということが多く質問に上がっていたように思う。

私、個人が好きな形としては、ナチュラルに紆余曲折あってそういう存在になっているものの方が好きだし、面白みがある。お膳立てされた居場所や偶像にはさして興味が湧かないけれども、結構な数の方がデザイン(設計)された居場所や偶像を好むのだなと新しい発見だった。

ブランディングというのもこちら側が意図的に見せていくというよりかは大衆が勝手にカテゴライズや取り上げをしていくという方向性が好ましい。私は。

人気とか信用を意識せず、とっとと次の曲にいくようにぶっちぎっていくのもある意味人気と信用を築くのだ。

 

2018年7月7・8日 大瀧冬佳ソロ公演予告

 

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場を紡ぐ、一つ一つを大切にすることで最高の場が作れる

場は会場借りて「はいOK!」ではなく、紡ぐ感覚に近い。その場所を貸してくださるオーナーさんに応援していただけるような人間関係を築くことも場所を紡ぐ一貫だと思っている。

その舞台に携わる全ての人の気持ちが場に乗るのだ。だからみんなに気持ちよく関わってほしい。また次も一緒にやりたいと思ってくれるような仕事を私もしたい。

「最適」をいつだって選べるような自分でいたい。そこに損得勘定や打算が働かないようにしたい。それはほんの些細なこと一つ一つの選択から成り立つものなので、自分の基準を確かにもつ精神力が必要。

例えば、機材一つ、舞台美術の紙質一つ、ステージの高さも、床材も、衣装の生地も、全部お金で価値を測るのではなくてそれがこの作品にとってベスト(最適)なのか??っていうだけで選ぶこと。

自分の中で世界観を確かに、一貫させてしっかり持って、それを幕が閉じるその時までずっと筋を通しておかないといくらノーミスで踊れたとしてもそれでは人に感動を与えることはできないし、私の満足も得られない。

本当に細部のところが肝心。そして見えるとこだけ見栄張っても自分だけには嘘はつけないのでね、その腐った性根はここぞの時に自分を苦しめるんだ。舞台の上で信じられるのは、妥協しなかった自分の心だ。

どこまでこだわり、どれだけの想いを込めてきたかは、緊張した自分を支えてくれる。大丈夫だ、お前ならできると背中を押してくれるのはそうした自分なのだ。

いつも自分の本物を選べるように、メンタルもフィジカルもマインドも整えておくのが場を紡ぐということ。

 

チケット発売まであと3日!!!

ダンスカンパニーUzme第二回大瀧冬佳ソロ公演「ナナシとガス」

2018年7月7日・8日 開演は両日ともに17:00~

場所は蒲田のギャラリー南製作所です。

 

お越しいただけること、心よりお待ちしております。

チケットのご購入は6/1 10:00から大瀧冬佳公式HP・大瀧冬佳FB・大瀧冬佳ツイッターにておしらせします。

 

重要なものに対して無関心でいられる人間を量産するシステムの中で育っている

AIに仕事が取られるよりよっぽど危機である

仕事はさっさとAIに取って代わられる時代が訪れたらいい。なぜなら無駄に人生の時間を費やしているのにそれに全く危機を感じていない方が仕事を取られるよりも危機だからだ。考えると世の中や人の役にたっていない。労働力としての仕事は正直あなたじゃなくてもいい仕事だ。そんなことないだろ!と憤らず聞いてほしい。労働力なんていうただの「数」としての仕事ならどんどん人間じゃないものに代替された方が良い。

それだとご飯が食べられなくなるという人も多いが、そのシステムが変わればいいのだと私は言っている。大して役にもたっていない、生き甲斐も感じない、ご飯を食べるお金を稼ぐためだけの仕事に就いていること…すぐには変えられないかもしれないけれど、これを危機だと感じる感覚を持っていないのは困った事態だ。

そういうものなのだ、仕方ないという思考停止がやばい。

変えられるものを変えようとすること、変えられないものを変えようとしないこと

変えられるものと変えられないもの、これを正しく見極める賢さを持ちたい。無駄を生まないためだ。幸福の追求ってそういうロジカルなことだ。

やりたくないことをし続ける、楽しくないことをし続ける…変えられるのか変えられないのかを検討することすらせずに、これは仕方のないことだと考えようともしないのが良くない。

変えられることを変えようとするというのは、難しいことじゃない。変えられないことを変えようとしないことも難しいことじゃない。難しいのはそれが変えられることなのか、変えられないことなのかを見定めることだ。経験や知識が判断材料だと勘違いしている人は多いが、正確には大局観と知恵が見定める時に必要な能力だ。蓄積されただけの知識は使っていないと腐るし、積んだだけの経験も留まっていれば実は行動を邪魔しているものになっていたりする。

例えば5歳の子供に「将来は野球選手になりたい、僕もなれますか?」とプロ野球選手に質問したら「野球を好きになってずっと続けていけばなれるよ」というようなことを答えるだろう。ではこれが中学三年生高校受験を目前にした子供に聞かれたらどうだろう?無理だ勉強しろと答えるのか、そんなに甘い世界じゃないけどやれるだけやってみろと答えるのか。プロ野球選手になれるのかなれないのかっていう見定めは非常に難しい。

その見定めさえもAIができるようになったとしたら?

膨大な情報をパターン処理して、「プロ野球選手になれる確率は何%」「今から〇〇をしたら○%確率が上がる」なんていうことが可能になる未来もそう遠くはないとしたら?将来に悩むこともなくなるし、結婚相手に悩むことも、何もなくなった先に私たちは何をして人生を埋めるのだろう。

私はそんなことを一人で悶々と考えた結果、ある程度の抑圧や不都合も人生のスパイスとしてあった方がいいと思う人も一定数いそうだなと思った。悩みがなくなったら何をしていいか迷ってしまう人も多いのではないか。もう考えれば考えるほど、無駄や悩みや我慢って性癖みたいなものだってことに行き着く。

あらゆる障害から解き放たれたときに、「さぁ飛んでいけ〜!」って鳥籠があいても飛び方を忘れてしまって鳥籠に居残ったまま。そんな風に「重要なものに対して無関心でい続けること」に慣れてしまった人は自由や富もまた両手いっぱいに受け取れることができなくなっちゃうのだ。
AIも仮想通貨もVRももうそういう「鳥籠なんてないよ」を象徴するものだと思うのだ。

私たちのやる気スイッチはどこにあるんだろう

こういう話をすると本当にやりたいことがあることがいい!みたいな話の方向になってしまいがちだが、私は新たに「フェチに生きる」ってどうかなと提案したい。っていうか、やりたいことがめっちゃあるように見える人たちも2パターンいて、

・誰かや世の中に勝ちたいパターン

・変態パターン

だ。誰かや世の中に勝ちたいパターンはそのままだけども自分以外の別の対象よりも勝つことがモチベーションの人たち。勝つ何かは、資産かもしれないし、美貌とか、幸せそうに見えるとかそういうの。対して、変態パターンというのは自分だけの強いこだわりの元、遂行する人たち。色々超便利になって、鳥籠があいた時代が来ても来なくてもフェチに生きるのがいいんじゃないかって。

「なんか!たまらなくいい!!」みたいな指針だけで生きていく、そこに枠を設けずにどんどん自分を解き放っていく思考に変えていこうと思う。

 

何も言っていないに等しい言葉5選

これを書いたら、今後えらく発信しにくくなるのだけど。

 

「共感しました!」という言葉

よくコメント欄で見かける、共感した!その通りですね!という言葉たち。きっと自分が今まで何となく感じていたことが言語化されていたことへの感動の気持ちを表しているのだろからそれが悪いとは言っていない。けれどもあなたがいつもそうした言語化ができないのは「共感しました」止まりだからだと思うのです。そこから何をどう共感したのか自分の言葉で紡ぐ癖をつけると、そのうち自分の言葉で語れるようになると思う。

つまり、これはあなたは何も言っていないに等しいのだ。

「やっぱり人だよね」という言葉

そらそーだろと思うのです。人柄の良し悪しなんて正直とても測りにくく全く参考にならない尺度だ。だからこそ、私たちは最低限のセオリーを守る(仕事なら尚更のこと)ことは大前提として人と関わると思うので、「やっぱり」と再確認されると「え、今更?」と思ってしまう。むしろスタートする前にそこはあるもんだと思っている。今更何言ってるのワード3位以内にランクインしそうだ。

「難しいよね」という言葉

いろいろと自分の意見を言った挙句の締めの言葉で「夫婦って難しいよね」とか「子育てって難しいよね」「イベントって難しいよね」って言葉。「うん、そうだね、で??」ってことを私たちは今まで話していたのではないか??と感じてしまう。難しいから何なのだ。その言葉は解決できないのは自分のせいではなく問題が複雑だからだってことでやり過ごそうとしてる放棄の言葉に聞こえちゃう。私も言いがちなのだけど。

「盛会をお祈りします」という言葉

…その祈り、意味ある??基本的に祈りというものがよくわからない。盛会への祈りに限らず、被災地への祈りも意味があるのかわからない。何か行動した方が祈りより価値があるような。百歩譲って祈りに効果があるとして、その祈っていることをわざわざ人に伝えるというのはただのアピールでしかないなぁと思う。

「人それぞれだよね」という言葉

でしょーね!!!!って思っちゃう。いや、そりゃそうだろ。もっともらしく言ってるけど、超当たり前のことでしょ、それ。その上で私たちは今話してるんじゃないのかな??って言葉。

 

「そうですねー」という言葉

以上、私がふだんモヤってる言葉たちをお届けしました。こちらに何をして欲しいのか察ささせる尻切れとんぼみたいなのも好きじゃないです。大人なら意思を持って、しっかり自己主張して欲しいです。

「で?」って言葉で返しそうなのを飲み込んで「そうですねー」で流してる私も大概何も言ってないのと同じですがね。

 

客というよりお仲間ばかりのイベントは行きにくい

 

内輪感がキツい

内輪のイベントや公演、ライブがいけないわけではないが、一般向けにチケットを販売していても行ってみると観客はみんなお仲間。終演後も招待してくれた出演者に挨拶しにくい…という舞台、イベントは結構ある。みんな生徒さんだったりお仲間なんだなって。それと作品の良し悪しは関係ないと言いたいけれども、やっぱり疎外感というか、なんか居心地の悪さみたいのは感じてしまう。

大したことではないけれども、2回目誘われた時はやっぱり何が何でも観に行こうとは思わなくなってしまい、気づくと足が遠のいていたりする。

義理で行かねばならないという無言のプレッシャー

内内で集客している人にありがちなのが、「行ってやったんだから来てくれるでしょう?」という無言のプレッシャーの掛け合い。観に来てくれたから観に行かなきゃとも思いたくない。感想も気を使う。イマイチだったなってものも「よかったよ〜!」って言うことで小さなことだけども自分の感性が狂っていくかもしれないのが嫌。それから、同業だと本番は土日祝祭日にかぶることが多いので、被ってしまうと全然人を呼べなかったりする。仲間内で行ったり来たりと言うのは業界的にもクローズされて縮小していってしまう。

もっと外へオープンに勝負していく必要があるように思う。

なんせ、新参者はお仲間ばかりが集う公演やイベントには本当に行きにくいから!上っ面の仲良しこよしでやっているとプロ意識もクオリティも低下していく。馴れ合いだ。

誰のためのイベントなのか明文化せよ

内輪で楽しんでいて、外部からお金を払ってきた者を置き去りなのならば、もうそんな公演やイベントやめてくれって言いたい。最初から自分たちが楽しむためのイベントですって言い切ってくれればいいのにって思う。プロ意識の問題で、誰が楽しみを消費しているの??って話。イベントごっこ、公演ごっこに付き合わされるこっちの身にもなってほしい。

ホスピタリティって本当に重要だなと思う。手を回しきれなかったイベントも私も過去にはあったし、今も荒削りだと言われてしまうときもあるが、クレームはまだいただいたことがない。それは、もてなそうとか喜んでもらうことに一貫して運営しているからではないかと思う。スタッフから、アシスタントできた人にもそれは全員に認識してもらって言動を統一してもらう。実際に観客の前に姿を表さないようなその日限りのスタッフにもその気持ちは持ってもらうことにしていて、ダメなら申し訳ないけどその場で帰ってもらう。

私が教わった踊り子の心

私はバレエを礼儀に始まり礼儀に終わると言うような、ちょっと昔の人っぽいとても堅い師匠に教わり育ててもらった。舞台上だけ綺麗に澄まして姫を演じても、根っから高貴で上品な姫にはなり得ない。舞台から降りているとき、誰にも見られていないときが踊り子として大事なときだ。稽古場で踊れればいいわけじゃない。舞台で踊れればいいわけじゃない。もっと誰にも見られていないときに踊り子としての差がつく。

だから幕が開く前とか、小屋入りする前とか、それよりももっともっと前の段階でお客様と接触する前からもすでに舞台は始まっていると思って舞台に当たっている。礼儀礼節って本当に大事だと私は思う。まぁそんなにきっちりきっかりピシッピシッとしているわけじゃないけれども。

でも見ず知らずの他人様にお金いただいて踊りを観にきていただくっていうのはそういうことなんじゃないかと私は思う。

鰯の頭も信心からなマーケティング手法は飽きた

 

 

ホンモノのやつが見たいぞ

中身スカスカ、ハリボテばっかり。

「みんなが凄いって言ってる」たったのそれだけがその人その物の頭からお尻で全て。単調でつまらないな。飽きたぞ。もっと複雑でクリエイティブなものが見たい。

 

鰯の頭も信心から

この諺の意味は、つまらぬ鰯の頭も信じる心があると尊く素晴らしいものに見えるって意味。

誰とは言わないが、「信用」という言葉をウザいくらいに連呼して…でもそれはただ自分に盲信させたカモのこと。カモたちは中身を見ずに鰯の頭を褒め称えている。

 

崇拝しすぎると本当の意味で自由は得られない

信じる心ってすごく大事だと思う。

真っ暗な道で奇跡や希望や自分を信じられなかったら、私は今ここにいない。もうダメだーってときにその信じる力が最後に救う。

だけども、盲信や崇拝となると話は違う。自分を見失うほどに信じるのは全く違う。それは自分放棄だ。未来放棄、希望放棄。人生放棄。

ファンというのは「狂信者」という意味なので、私もまだまだどういう距離感で関わればいいのかさっぱりわからない。

でも、ひとつ思うのは先導者ではありたいけれど、その信じてくれる心を利用した扇動者にはなりたくない。

鰯の頭な人たちは扇動者なことが多いので、見ていてすごく参考になる。ひとつに全く愛がなく、そしてクリエイティブでなく、愛がありクリエイティブに見えるのは二番煎じスキルと物は言いような巧みなテクニックのせいだ。

 

観察眼を養うために

本物を見極められない、本当に良いものを知らない。

私は子供を育てていて、こういった目を養ってあげたいなとすごく思うし、自分自身も養っていきたい。

一流に触れるということが大切だ。何でもそうなんだけど、「それ、あんまり好きじゃない」とか「それの何が面白いの」ってものがあったとき、そのものの頂点に触れてから判断したのかということ。

よく男性のバレエダンサーは(モッコリしたタイツを履いていて恥ずかしくないのかということで)軽くバカにされているのを聞くけれども、一流バレエダンサーの踊りを生で見てみなさいよと思うわけ。マジで王子。本気でかっこいい。私にとってはロナウジーニョみたいなトップアスリートと同じくらいカッコよく見える。

もうひとつは、偽物や悪いものに触れないこと。これは嫌いなものに触れないのとは違う。嫌いって感情は、ある意味で自分の何かを刺激してくる要因があるわけなので、省がなくても良い。それよりも何とも思わないもの。興味がわかないもの。みんなが良いって言ってるだけなものにいちいち反応しないってこと。

特に最後の「みんなが良いって言ってる」にばかり興味を向けていると、目が腐ってく。危険だな。

 

平成の終わりに

きっとたぶん、10年もしたら誰の記憶にも残ってないでしょう。鰯の頭は。

みんなが良いって言うのなんて、どれくらいの期間なんだろうか。もって3年か。

みんなって誰なんだよって思うしね。「みんな」は簡単に仕掛けられるのだ。いくつものメディアや、何人かの人が同時にそのことについて噂してるだけで、聞いた人にとっては「みんな」になる。実態を確かめもせずに「利用者の99%が絶賛!」って書いてあっただけで信じちゃう人だっている。

でも、その手法が通用するのはすごい勢いで終わっていくんじゃなかろうか。

それは個人の意識と世界の仕組みが同時に大きくそしてペース速く変わってきているから。貨幣の仕組みや概念が変わっていたり、価値の表層化されるものが大きく変わってきた。年収や学歴だけだったのが今はもうもっと目に見えないものまでも評価されるようになってきた。

平成の終わりに私が思うのは…これからさらに変化が加速して3年スパンでもう今の常識は通用しないということをしっかり理解しながら身を振っていくこと。頭柔らかくないとダメだよね。多様性を受け入れられるように。

 

子供が何でも分解して遊ぶのを叱っちゃうような私じゃまだまだだ。

個人にオリジナリティがない、勉強しかできない、合理的じゃない、これが圧倒的な差

 

世の中なんでも聞く人ばかり

勉強ができる人は世の中にたくさんいるけれども、勉強ができるようになるために勉強をするのではない。本当になんのために義務教育という、人の一生でかなりパフォーマンス高く過ごせる期間を9年間も捧げてきたのかな日本人は…と思うのだけども。そこの答えがわかっていないまま、さらに高校大学とティーネイジャーを7年間も捧げてしまうなんてもはや罠だ。

突き止めることができない人が多すぎる。自分で調べろ、考えろと言われて、何をすることかわかっていない人が多すぎる。先人がどこまでやっていて、自分がどこまでやるのかっていう思考を全く持っていない。

ググれカスって言ってるうちはダメだよね。

ネットで調べればなんでも出てくる分かる知れるって思っているうちはダメ。仮説と実験、検証、考察っていうことをしなさすぎる。だからオリジナリティが全くなく、自分が何者かを世の中に示すことができない。

 

養成講座に行ってどうするの?

学びも大事ですよ。でも、それは自分で実践してから。の確信を得るため、裏付けを得るために学ぶ。くらいの感覚があってもいいのではないか。

何かいいアイディアやいいことを聞くと、すぐにググる。そして、それを教えてくれるところはないかと探す。それでは、あなたはいつまでたっても量産型劣化ロボット。養成講座ってなんのためにあるのかな。資格とって安心することがゴールなのであればそれをしたらいいけれども。

 

そのくせ個性に憧れ突き抜けている天才に憧れる

それはだね、自分で未開の地を興味を持って開拓できないと無理だ。

研究をしないのは危険だ。めっちゃ学んでいる、勉強熱心だ、これで自分は成長していると見誤っていると危ないという意味で。あのそれではいつまでたっても、自分の立ち位置は作れない。自分でつまりは調査していかないといけない。

「これがこうなったらどうなのかな」って。でもそれをむやみやたらにやるのは、すでに先人がやっていることがとても多いので、じゃあ自分はどこに差し込んでいくかなって知るために先人がすでに見つけたことを学ぶのが正しい。それが義務教育を受ける意味だと私は思う。

自分の差し込む先を見定めるための勉強だ。それを知って終わりじゃない。

 

狂ったことをしないから勉強しかできない

何が合理的な解なのか。やってみないとわからない。それは今は普通じゃないことであって当然。だから、例えば、一つのバカみたいな仮説も立てなきゃ始まらないわけだけども、大抵の人はそれを見て「普通じゃない」という。でも、それを言っているうちは勉強しかできないのだ。

すでに拓かれた道しか歩けない。それはつまり誰かが開拓してくれた道に通行料を払いながら生きていくってこと。

例えば、私は玄関で寝ていたことがある。それは普通の人からしたらおかしなことだけれども、あなたはそれでどれだけの時間が生み出せるかやってみたのか、知っているのかと問いたい。頭っから、「普通じゃない」って決めつけるのはすごく残念な頭をしていると思う。これは一例だけども、こうして自分なりの仮説を立てて検証して結果を出す。このプロセスを繰り返すことが勉強で得られない自分のオリジナリティだったり、合理性になるのだ。研究することね。

 

手垢のついたただの知識で好奇心が満たされるのか

私は自分がすごい人になりたくて研究するわけじゃなくて、自分が知りたいことを教室の椅子に大人しく座って教わるんじゃ満足しなかっただけの話だ。

「この答えを出すにはこの公式を使います」

「はい、そうですか」って言えない生徒だったからだ。

なんでこの公式でこの答えになるのかを知りたくて、一人納得するまで考え続けたし、学校の先生がなぜこれで答えが出るのかわからない公式を作り出したこともあった。その時の快感が今の私の原点なのかもしれない。ノートやメモを綺麗にとって、綺麗に暗記して、それで満足できるならそれでいい。

私の教える体のことや、ダンス、バレエは全部仮説検証を今でも繰り返し続けているものだ。だから、オリジナリティがあるし、内容は突き抜けていると思っている。教わった人は皆、「これは知らなきゃできないよね」という感想を残していく。つまり、今までバレエの何も教わってきてないということだ。私に教わるまで。そりゃ今までできないよねと納得して帰っていく。そして、次のレッスンまで2、3週間は予約があく。その間、生徒さんたちが何をしているのかというと、私から教わったことの検証を自分の体を使って行なっているのだ。それが真の学びだと私は思う。

自分のものにするために勉強と研究が必要なのだ。実際はだから何事もすごく時間がかかるものだと思う。養成講座に行ったらなんとかなるものって全て偽物だからやめたほうがいい。少なくとも私はいらない。

成長に必要なのは、この勉強として取り入れるのと自分で実験、研究をものすごく早く回転させることだ。楽するなよ!すぐに教えを乞いにいくっていうのはわからないから簡単に問題集の答えを見るようなもんだよね。そんで、答えは一つじゃないのは大人になればわかるじゃないか。誰かが見つけた答えだけが答えな訳がない。本当の答えはあなたの中にあるのかもしれない。楽しちゃいかん。

 

 

どんな世の中にしたいのか、そしてあなたに何ができるのか

 

どんな世の中を実現したいか

社会の隅っこで泣く子供がいない世の中を実現したい。それから、もっとアートやエンターテイメントが日常に密着した世の中にしたい。

 

そういう世の中の実現に向けて課せられた私の使命

自身の体験・知識・考えを発信しつづけること

質の高い本物のアートやエンタメ(「自分を動かすのはなんですか、動かさなければならないものはなんですか」の動かすものであること)の表現創作活動をする

そして、その広め方までも丁寧に手をかけ観客の胸にしっかり渡るまで見届けること(従来の伝統あるものの成功例を倣いつつ、革新的な広め方の工夫をし続けること。)

 

その使命を果たすために提供しなければならない具体的な価値

1.発信

・当ブログでの発信。毎日投稿。2018年新たに提供していきたい価値は国内にとどまらず、世界に向けての発信。主に私がこの活動、仕事、表現、生き方をする動機について

・動画での発信。言葉(ブログ・マガジン等)から興味を持ってくださった個人や企業、団体様に向けてより具体的に伝わる動画の発信。

・他メディアを使った発信。本、講演会、テレビ、ラジオ等、個人のメディアから枝分かれの延長で外のメディアでも発信をしていきたい。それによって提供できる価値は、社会的な信憑性、アートへのきっかけ。

2.表現創作活動

・公式コンペやコンクール等での入賞(タイトル獲得)。アート自体が優劣をつけにくいものだけど、それでもアートから縁遠い方や全く知らない方にも本物か偽物かを判断する目安として国内外問わずコンクール入賞すること

・年間動員数1,000人を出し続けること

・なんとなく観た1本の舞台ではなく人生を変えた作品として観客の記憶に残すこと

・終演後、隣の初対面の観客と飲みにいって語り合いたくなる作品を提供し続けること

・全国から公演を観に来てもらえるカンパニーであり続けること

・公演は常に満員御礼であり続けること

・ファン(伝道師)のいるダンスカンパニーであり続けること

・集客のできるキャスト、確かな技術のあるスタッフに対してそれ相当のギャラの支払いをすること

・手弁当で回さない(趣味の延長ではない)確かなビジネスモデルとしての興行を学び実践すること

 

じゃああなたは何ができるの、何をしているの

世の中に対しての不平不満、政治家を非難する人はたくさんいる。じゃあ、あなたはそれに対して何をしているの?何ができるの?って言われてしまうと…結局誰も何もしていない。口だけ。頭さえ使わず、ただどっかで見聞きしたことを自分の考えや意見かのように口からこぼしているだけ。

だからあなたの言う「こんな世の中」「あんな政治」なのではないか。

世の中や世界や国は誰かが変えてくれるものだなんて幻想をそもそも捨てるべきだし、そこ以前に一体変えるべきは何なのかを本当に自分の頭で考えたのかってこと。

そこまで自らがアクションをとるほどに切実に変えたいこともないから、テレビの前に寝っ転がって文句を言っているだけなんだ。

私はつまり、個が大小は問わず今日より明日の何かアクションをとるような衝撃、刺激をアートで届けることをしていきたい。個が世界を変えるんだと思う。一人一人が自分を生きようと思い、顔を上げて一歩踏み出すこと。そしてその心の栄養が舞台だったらいいなと思う。

大瀧冬佳流の黄金サイクル「生・学・換」

 

私が体系化させたものだから他には書いてないよ

年の瀬に急に大瀧冬佳に降って湧いたテキトー理論に名前をつけてみたらそれっぽくなったので紹介してみるよ!

 

黄金サイクル「生・学・換」則ることで見えてくる可能性3つ

  • 自分と向き合うことができる
  • 自分の人生のハンドリングが非常に明確になる
  • 幸福度や充実度が年々増していく

の3つかと思う。(大瀧冬佳の実体験に基づく)

 

で、それは一体なんなのかって話

みなさん何事もバランスだと思いませんか。過ぎたるは及ばざるが如しとよく言いますでしょ。「生・学・換」はバランスのこと。人生をロングショットでみるか、クローズアップでみるかによってもそのバランスの取り方ってその時々によって変わると思うんだ。その時々に合わせたもの考え方、見方に「生・学・換」を使うと難しくなくなるっていう寸法だ。

 

1日で考える「生・学・換」

一番わかりやすいところから説明すると、それはあなたの一日、24時間の使い方のバランスだ。

「生」→生活(食事、睡眠、お風呂、歯磨き、家事、育児、主にプライベートなこと、生きるのに必要な時間のこと。

「学」→学び(読書、トレーニング、習い事など自分に投資する時間。インプットの時間のこと。)

「換」→換金(主に仕事)

 

あなたの24時間は上の3つに分けるとしたら、どんな割合になりますか。

例えば、私の10代は40万を月に稼がなければならなかったんだけど、私の持っているものではお金に換えられるものがなかった。強いて言えば、愛嬌と体力と若さとバレエの技術と知識。一番は自分の10代の「時間」をお金に換えて40万を稼いでいた。雇用形態はアルバイト「時間給」ってのはまさに能力ではなく主に「時間」をお金に換えているわけだ。で、水商売はプラスアルファ「若さ」という付加価値をつけた時間を売っているから高くなるんだね!私はヨガのインストラクターもしていたので、それは能力がプラスされて通常の時間給よりかは多めに換金できていた。

 

そして、それでも40万に満たないので私は10代のうちに「学び」をやめて、その時間さえ「換金」した。さらに、それでも足りないので「生活」の時間さえも「換金」して1日に21時間働いていた。当時はつまり、極端な例で申し訳ないが、生:学:換=3:0:21だったわけ。これはその場はチートみたいに結果を搾り出せるんだけども、続かなくて色々破綻するんだ。

 

これを今は8時間、8時間、8時間に近づけているところ。

 

皆平等にある時間という資源。だけど、やっぱりこれだけ投げ打っても40万なんだよ。青春というかけがえのない時間や、体も頭もめちゃめちゃ動くこの時期に労働に時間を売っ払ってしまうっていうやり方は賢くないなってわかっていながらやっていた。でもだから、『今は背に腹は変えられないけれども徐々に「学」の時間を増やしていこう』という考え方が私に芽生えたんだ。

 

当時、10代の私と同じように時間を売っているだけの30代のバイトリーダーを見ていたら、お金持ちとの違いが歴然としていた。まず、生にも学にも換にも当てはまらない「謎」時間が多いんだよね。ただ休憩室でタバコ吸って店長や店の愚痴言っているだけとか。いや、仕事終わったんなら早く帰れよ!邪魔だよ!ってよく思った。

 

そこまで行かなくても、ただ毎日「生」に時間を無自覚に使い続けた専業主婦とかが急に「私の人生ってなんだったんだろう?」ってなっちゃったとか。ずっと人生の時間を「換」金し続けてきたサラリーマン(お父さん)が生気がなくなって見えるのとかって、それがいけないのではなくて、あまり深く突っ込んで自分が何に時間を使っているかを特に考えも納得もせずに過ごしてきてしまったからではないか。

 

自分で考えて納得していたら、後悔はないんだよ。だって、私は3:0:21なんていう無茶な使い方で青春を過ごしたけど、後悔は一つもない。

 

1年で考える「生・学・換」

毎日の生活のリズムや慣習ってそんなすぐに変えられるものじゃない。だけど、変えられる。

そこで、1年で考える「生・学・換」を使ってみる。

1年は12ヶ月。年の瀬だしみなさん今年の振返りとか新年の抱負なんかを立てたりすると思うが…これを叶いやすくする考え方でもある。ずっと頑張り続けることが叶えるのに最適解かっていうと全然違う!

1年で考えたときの「生・学・換」はこんな感じ。漢字の成り立ちからヒントを得て。

 

「生」→混じり気のない本来の加工も精製もされていないことに目を向ける

「学」→教えを受ける、悟る、理解する、真理から分かれ出たやり方や傾向、態度のを同じくする仲間を見つける

「換」→他のものに取り替える

 

と言った感じだ。これをひと月ごとにテーマとして当てはめてあげることだ。すると、動けないこと、結果でないことに焦ることもなくなるし、最終的に何と何を取り替えたいのかっていうのが、まぁ新年の目標ってわけ。

1日の過ごし方の割合をいきなり変えるのは難しいけれども、1年で考えたらテーマとしては取り組みやすくなると思うのだ。

 

人生で考える「生・学・換」

最後、ロングショットで見てみよう。

 

「生」→精神的

「学」→肉体的

「換」→社会的

この三つが満たされた状態が健康だとWHOは定義している。単に病気じゃないっていう状態ではなく、肉体的にも精神的にも社会的にも満たされていることが健康だそうだ。「健やか」って幸せだなと改めて私は思う。

 

プライベート、生活、暮らし、ニュートラルな何の肩書きも背負っていない状態が満たされているのは確かに精神的に余裕が持てるとは思いませんか。どれだけ社会的に成功していても精神的にガタガタだとそれは幸せだとは言い難い。

そんな風に、いろんなテーマを持った年があると思う。私は来年は「生」で、再来年は「学」、三年後に「換」を持ってこようと思っている。

 

「風を読む」「波に乗る」「流れに身を委ねる」ってすごく大事なことだ。今まで、何が何でもここを突破してやる!!!!って力づくで進んできたときもあったが、ときの流れを読むことこそが目標達成の最適解なのかもしれない。テーマは「私はこうしたい!」という希望も大事だけどももっと自分のニュートラルな肩に力の入っていない状態で感じる心の声に耳を傾けて、直感を研ぎ澄ませて、テーマを決めるといいのかなと思う。すごい、急にここだけフワッとしたものになってしまったが。

 

この黄金サイクルはやりたいこと100リスト作った人にも活用してもらったらいいかなと思う。

 


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