絶対だと思っている価値基準を意識的に変えてみる

自ら発信するのをやめたら私は世界との繋がりはほとんどなくなるのかな。それを今の私は怖いと思うのか、ホッとするのか、どうなのか。そんなことを、ふと考えた。

きっと、どうとも思わないような気がする。

私はいつだって、今やっていることは未練なく明日すぐにやめてもいいようにしたいと無意識に思っている。あなたも今日一日いろんなことをしたと思う。寝食以外のことで、特別に続けている類のこと。

例えば、「SNSをみる」もそうだし、「誰かとお茶をする」とか、なんでもいい。それを明日にはきっぱりやめるって想像してみてほしい。どう感じるだろうか。これはどうしてもやめるの怖いと思うだろうか。やめられるもんならやめたいと思うだろうか。それはやめられるわけがないと思うだろうか。

そしてそれはなぜそう思うのだろう。

私はそんな風に自分の今日したことを寝る前に時々振り返る。それは無駄な時間を過ごさないためとか、生産性のある時間、効率よく過ごすためってことではなく。自分の価値基準を変える遊びを楽しんでいるのだ。

どれくらいフットワーク軽く、アグレッシブに変化を楽しめるのだろうかっていう遊び。自然と「これ絶対」という思い込みや刷り込みはできてくる。それを自分で目から鱗!!!って感じの革新を起こすことで世界はより刺激的になる。

脳内世界旅行に近い。私は海外旅行には一回しか行ったことがないけれども、よく海外から帰ってきた人が「価値観が変わった」と言うじゃない?あれを海外に行かなくとも自分の中でできてしまう。するとこれを続けていると、自分にとって絶対的なものにも執着がなくなり、柔軟な意見を持てるようになったり、人と違う意見が言えたりする。そこに執着していないからだよね。

誰かに幻滅されないか、大したことないって思われないか、そんな風に傷つけられるとや奪われること、壊されることに恐怖や不安を知らず知らずに抱いている人って、ガラクタを(本人は超重要なものだと思い込んでいる)必死に抱え込んで身動き取れなくなっていたり、ハリネズミみたいにトゲトゲをむき出しにすることで人に介入されないようにしていることってある。本当は寂しいのに。本当は愛されたいのに。

それは少し前の私なんだけど。肩で風切るようにして、強く見せて世間に負けないように必死に生きていた。何をそんなに必死に守っていたんだろうな。誰から守っていたんだろうと今はとても不思議に思う。だって今は手ぶらでノーガード。

基準を変えながら世界をみてみるのも、なかなか面白い。あの人の大事にしているものを想像できるようになるからね。