自分の弱さに負けないこと

 

最後の最後、私を踏みとどまらせる何か

それは私にとっての美学。

世の中、正しくても美しくないものがあったり、万人が避けるようなやり方でも美しいものはある。

 

いいことをした人はシールがもらえる制度

小学校3年生の時に、「いいことをした人はシールがもらえる」という制度がクラスで始まった。帰りの会の時にみんな手をあげて今日自分がしたいいことを発表する。すると、先生からシールがもらえて、クラスメートの名前が書かれた大きな模造紙に、その横にシールが溜まっていくというものだ。その模造紙は教室の目立つところに掲示させていて、誰がいいことをたくさんしていて、誰がいいことを全くしていないか一目瞭然になる。

その制度が始まり、最初は乗り気でなかった生徒も、みんな、いいことを発表するのが当たり前になり、教室にゴミは落ちていないし、みんな率先して友達や先生の手助けをするようになった。しかし、意気揚々と手をあげて自分がしたいいことを発表するという行為が私にはどうしてもできなかった。

シールの枚数を稼ぐために、頼んでもいないのに物を持とうとしてきたり、教科書を忘れた子に誰が見せてあげるのかと争っていたりして、違和感でしかなかった。

私以外の生徒はシールが伸びていき、私だけがいつまでたってもシールが0枚のままだった。周りの友達からも言われるし、最終的に先生にみんなの前で問い詰められた。私は周囲からの刺さるような視線に泣きそうだったけれども、毅然と答えた。

「シールが欲しくていいことをするのはいいことだとは思いません。私にはできません。なら、悪い子でいいです。」

先生から親にも連絡が行き、私の学生時代は大人からしたら本当に厄介な子供だったのだと思う。

 

大人になった今でも、私は変わらない。

 

行動としては正しくても美しくない

私は「美しさ」が一番重要な人間なのだ。それは、どうしても曲げられない。小学校三年生の時の、たくさんの目が向けられ、先生にも「冬佳ちゃんは一度もいいことをしていないのかな?なんで手をあげられないのかな?」というたったそれだけの問いかけが、もう吊し上げられて拷問のように辛かったけど、それでも曲げられなかったくらいのこだわりなのだ。

形や表面や事象で私は物を見ていない。中身しか見えないから、そのいいと言われる行動に意味が見出せない。

 

しかし、裏返すとこうなる

よくグレなかったね。よく真っ直ぐ育ったね。そんな風に言われることが多い。

私自身もそう思う。

私、でも毎晩、この手で父を殺す夢を見ていた。実際にこの手で殺めても誰も私を責めることはできなかったと思う。そうでなくても、逃げたいな、やめたいな、消えたいな…そう思う瞬間はなんども訪れた。でも最後の最後で私を踏みとどまらせる言葉は「それって美しい?」ってことだった。

多分、この自問する言葉が「それって正しい?」では弱かった。正しさなんて結構脆いものなんだよね。コロコロ変わるものだし。

最後に私を引き止めるものは自分への誇りだったみたいだ。私は美しくありたい。お金はなく地を這いつくばって小銭を拾うような貧乏人に落ちても、アルバイトさえ採用してもらえないほどの社会的な信用度の低さに落ちていっても、それでも最後まで心だけは美しいままで、下等な人間に落ちていってしまいたくない。そこで踏ん張っていたところがある。

あいつと同じレベルの人間になってたまるかと、自分の弱さに負けないように、それだけだった。

 

美しさっていうのは、人間にとって結構重要なのかなと私は考える。人によってそれも変わるのかもしれないけれども。

 

腐木は柱と為すべからず卑人は主と為すべからず

 

なぜなら、徳のない品性の卑しい人は、困窮すると自暴自棄になってすっかり裏返っちゃうからね。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP