鰯の頭も信心からなマーケティング手法は飽きた

 

 

ホンモノのやつが見たいぞ

中身スカスカ、ハリボテばっかり。

「みんなが凄いって言ってる」たったのそれだけがその人その物の頭からお尻で全て。単調でつまらないな。飽きたぞ。もっと複雑でクリエイティブなものが見たい。

 

鰯の頭も信心から

この諺の意味は、つまらぬ鰯の頭も信じる心があると尊く素晴らしいものに見えるって意味。

誰とは言わないが、「信用」という言葉をウザいくらいに連呼して…でもそれはただ自分に盲信させたカモのこと。カモたちは中身を見ずに鰯の頭を褒め称えている。

 

崇拝しすぎると本当の意味で自由は得られない

信じる心ってすごく大事だと思う。

真っ暗な道で奇跡や希望や自分を信じられなかったら、私は今ここにいない。もうダメだーってときにその信じる力が最後に救う。

だけども、盲信や崇拝となると話は違う。自分を見失うほどに信じるのは全く違う。それは自分放棄だ。未来放棄、希望放棄。人生放棄。

ファンというのは「狂信者」という意味なので、私もまだまだどういう距離感で関わればいいのかさっぱりわからない。

でも、ひとつ思うのは先導者ではありたいけれど、その信じてくれる心を利用した扇動者にはなりたくない。

鰯の頭な人たちは扇動者なことが多いので、見ていてすごく参考になる。ひとつに全く愛がなく、そしてクリエイティブでなく、愛がありクリエイティブに見えるのは二番煎じスキルと物は言いような巧みなテクニックのせいだ。

 

観察眼を養うために

本物を見極められない、本当に良いものを知らない。

私は子供を育てていて、こういった目を養ってあげたいなとすごく思うし、自分自身も養っていきたい。

一流に触れるということが大切だ。何でもそうなんだけど、「それ、あんまり好きじゃない」とか「それの何が面白いの」ってものがあったとき、そのものの頂点に触れてから判断したのかということ。

よく男性のバレエダンサーは(モッコリしたタイツを履いていて恥ずかしくないのかということで)軽くバカにされているのを聞くけれども、一流バレエダンサーの踊りを生で見てみなさいよと思うわけ。マジで王子。本気でかっこいい。私にとってはロナウジーニョみたいなトップアスリートと同じくらいカッコよく見える。

もうひとつは、偽物や悪いものに触れないこと。これは嫌いなものに触れないのとは違う。嫌いって感情は、ある意味で自分の何かを刺激してくる要因があるわけなので、省がなくても良い。それよりも何とも思わないもの。興味がわかないもの。みんなが良いって言ってるだけなものにいちいち反応しないってこと。

特に最後の「みんなが良いって言ってる」にばかり興味を向けていると、目が腐ってく。危険だな。

 

平成の終わりに

きっとたぶん、10年もしたら誰の記憶にも残ってないでしょう。鰯の頭は。

みんなが良いって言うのなんて、どれくらいの期間なんだろうか。もって3年か。

みんなって誰なんだよって思うしね。「みんな」は簡単に仕掛けられるのだ。いくつものメディアや、何人かの人が同時にそのことについて噂してるだけで、聞いた人にとっては「みんな」になる。実態を確かめもせずに「利用者の99%が絶賛!」って書いてあっただけで信じちゃう人だっている。

でも、その手法が通用するのはすごい勢いで終わっていくんじゃなかろうか。

それは個人の意識と世界の仕組みが同時に大きくそしてペース速く変わってきているから。貨幣の仕組みや概念が変わっていたり、価値の表層化されるものが大きく変わってきた。年収や学歴だけだったのが今はもうもっと目に見えないものまでも評価されるようになってきた。

平成の終わりに私が思うのは…これからさらに変化が加速して3年スパンでもう今の常識は通用しないということをしっかり理解しながら身を振っていくこと。頭柔らかくないとダメだよね。多様性を受け入れられるように。

 

子供が何でも分解して遊ぶのを叱っちゃうような私じゃまだまだだ。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP