9/3よりついに始動!自分を妥協せずフルで打ち出すということ

 

 

 

 

大瀧冬佳率いるダンスカンパニーUzme

いろんな人が賛同し仲間になってくれている

「ココに全てをかけてもいいと思ってる」

「大瀧冬佳だから中途半端なことじゃないからやりたいんだ」

「一緒についていきたい」

そんな風にみんな言ってくれて

私は一瞬、弱気になったりもした

 

でもさ、第一回のキックオフミーティングのときに

私自分の口から言ったんだよ

「みんながどれだけ尽力してくれても

私は『ありがとう』って言わないよ。

今も喉のここまで出懸かってるけれど

私は『ありがとう』というくらいなら

そのエネルギー全部表現にぶつけて感謝を示す」

 

 

そうなんだよね

私は自分の作りたいものに

命、魂、体、全部を注ごう

 

大瀧冬佳がやりたいもの

それをどれだけフルでぶつかっていけるか

ほんと、ここだけなんだ

 

私が感じてきた悲しみや怒り

喪失感、空虚感、無力感

絶望からの無

でも、一筋の光を手繰り寄せるように

もがいてあがいて見つけた

生きる喜び、踊る喜び

そして、私は舞台に立っている

 

 

そんな唯一無二の私の内面を

どれだけ表現できるのかなってところだけで

私は来年5月まで走っていくのだろう

 

今のままでは全然足りないんだよね

表現に耐えうるカラダじゃないんだ

 

内面に外側がついていかない

とてもフラストレーションがたまる

 

一ミリも妥協したくない

こんなふうにぶつかっていって

思ったものができなかったら

こんなふうにぶつかっていって

期待はずれだったら

こんなふうにぶつかっていって

大したものじゃなかったら

こんなふうにぶつかっていって

自分だけのゴールに到達できなかったら

 

そういうことを気にして

大概の人は保険をかけた

なんとなくのところでやってるだろう

見せかけの挑戦で満足するのだろう

 

表現者やアーティストは

捨て身だ

自分の全部を打ち出すギャンブラー

だからこそ、人の心を打つのだと思う

 

そして、人に感動をとか

人を熱狂に包み込ませるとかをゴールにしてるんじゃなくて

限界やゴールなんかなくて

自分のフルを常に出しつづける

限界を越えていく

どっか、頭の安全装置がぶっ壊れてるとしか思えない

 

 

でも、私もこれを作りたいに一直線なんだ

それが楽しいから

その他のことなんてどうでもいい

 

私、まだ26才でこれはほんの序章に過ぎなかった

って思う日もいつかやってくるかもしれない

だけども、今の一瞬、一瞬が今の最高でありたい

 

人生はそう長くない

やりたいことは今やる

もしかして、本当はこんなふうに

自分の人生を体現するような公演をうつのは

時期尚早と言えるかも

だけども今できることは今しかないんだなぁ

 

この未熟な私のままで

不器用ながらも表現していきたい

ふだんは表出しないけど

肚の中で暴れ狂う魔物をね

出せる場をつくりたいんだよね

私の体がそれに耐えうるかが今の課題

 

そんな一片を大分中津でやってみます

自分をギリギリまで表現できるか

ここから勝負です

あぁ、ほんとうに怖い

できるのかできないのか

今の全部でぶつかっていこう!!

ただそれだけです

 

9/3 10:40~「大瀧冬佳ダンス」観覧無料(投げ銭)

詳細はこちら

 

バレエ

 

ヨガ

 

 

お知らせ

 

 

 

私がダンスで伝えたいこと〜京都へ行ってみて〜

 

 

 

先日、京都へ行ってきました。

「ダンスのつながりで旅をする」

という一つの夢と

 

「ダンスで心通わせる空間を提供する」

という夢を叶えてきました

言語:非言語=3:7

この割合は人に伝わっている情報の割合です。

私たちはコミュニケーションというと

話し方、聞き方に重きを置いていると思います

 

しかし、

言葉以外のところで相手が汲み取っている情報量は

想像以上に多いのです。

 

そして、自分自身も言霊の力に加え

ボディランゲージが自分に及ぼしている力も

とても大きいです

 

私たちは何故、良いことがあると

誰かに教わった訳ではないのに

ガッツポーズをしたり、両手を高くあげたりするのでしょう?

 

私たちは何故、哀しいことや落ち込む出来事が起こると

小さく猫背になり、顔を両手で覆ったりするのでしょう?

 

嬉しいことがあって、縮こまる人はいないと思います。

悲しいことがあって、ガッツポーズをとる人もいません。

 

ダンスの起源は言語の生まれる以前から

私たちの遺伝子に刻み込まれたコミュニケーションの力だと

私は思うんです。

 

感じ方は人それぞれとよく聞くけれども

ボディランゲージに至っては

時代、国境、性別を越えて唯一共通のものですよね。

 

また旋律、リズム、テンポ…

これらの情報から悲しい曲なのか

ハッピーな曲なのかの感じ方もみな大体同じことを感じられます。

 

その中で、自分の人生経験の中で

同じハッピーな感情でも思い浮かぶ光景は

10人いれば10通りのハッピーがあり

 

悲しみもまた10の悲しみがあります。

 

そうしたものをダンスで自己を開放させ交換することが

ダンスでのコミュニケーションで

それが私たちのご先祖さまがやってきた祭りの始まりです

 

五穀豊穣を願って、雨乞いをして

「生」に直結した踊りだったんではないかと思います。

 

 

私は言葉にできない、もしくは言葉にしたくないような感情を

子供のころからバレエにぶつけてきました。

気兼ねなく自分の心を開放させられる唯一の場所でした

 

ダンスと出逢ってなかったら私は今頃生きていないかもしれません。

結果、振り返れば心の治療のようなものでした。

表現をすることでまた明日も生きていける勇気がもらえました。

 

まともで健全な自己肯定感を育むこともできました。

 

特別な話ではなく、ダンスにまつわるそうした話は後をたちません。

楽しいを越えた、「生」そのものを実感できるダンスは

私たち現代人が置いてきてしまった宝物だと思うんです。

 

自分の中の美しさ、自分の命の官能にしたるような感覚なんです。

 

私はそれを「セラピー」や「療法」という

結果を先に提示する言葉で表現したくなくて

だから、どのようにアプローチしていくのかが

ここ半年以上にわたる課題でした。

 

ダンス未経験の人がダンスをどう捉えているのかも

想像がつかなくて…

ダンスのない世界で生きていたことがない私には見当もつきませんでした

 

 

だから、最初のアプローチはステップを教えるクラスや

カラダの動かし方を教えるクラス

と、外側から攻めてみたのですが

全然、私のやりたいことではなく

考え悩み、トライ&エラーの連続で自信を失いそうでした。

 

自分の中にある確信は確かにあるのに

どんどん行動が遠ざかっていく恐さがありました。

 

 

そこで、

京都で開催した「ダンスパーティ」と銘打った企画は

教えるということの一切を封じて

とにかく心と体の開放にのみ重きをおいた

ダイレクトに勝負してみようと私も肚を決めた

 

ダンスパーティのはじまりは自己紹介からにしました

名前、出身地、趣味特技などという情報は一切なしで

誰にも明かしたくない自分だけが知っている望みや野望

ゲスい心の内、そう言ったものを話してもらいました。

 

参加者は思い思いの衣装をまとい

顔には仮面をつけてもらっています。

 

不思議なことに顔を隠して心はさらけ出す

ということが可能になるんですね

 

日常では逆です

顔をさらし心は取り繕い隠しています

本音を内に沈め込ませすぎて

自分でも分からなくなっている人があまりに多いと私は感じます

 

ですから、ここではそれをやっていただきたかった

「その打ち明けた飾らない想いを音にあてて欲しい」

これだけがこのパーティのルールです。

 

私が用意した音楽はジャンルもテイストもバラバラ。

耳や肌で感じた音とリンクした心を

頭のフィルターをかけずにダイレクトに表現すること

 

恥ずかしがっている方が恥ずかしいくらいに

みな曲が1曲1曲と重なるたびに開花していく感じがありました。

 

 

スタジオの照明もギリギリまで落としてムーディな異空間をつくって

私も参加者さんがいないかの如く自分に集中していました

情感たっぷりに、曲によっては涙ぐんでしまいそうなくらいに入っていきます。

 

基本的に私が本気で踊っているときは

ランナーズハイに近いちょっと違う次元に入っています

 

それを一度も踊りなんてしたことない人に

伝染させることができるのかは

大実験でした。

 

結果、できてしまうんですよね!

びっくりでした!!

 

 

私自身がダンスを、自分を信じていなかったのかもしれません。

未経験だろうと、運動神経がなかろうと、歳をとっていようと

そんなの一切関係ありません。

 

もっと信じるべきだった。

私が信じきれていないものを人に伝えられる訳がない。

 

常々、上手いとか下手とかは関係ないと言っておきながら

外堀から守りから入っていた私は臆病でした。

 

ダンスの可能性と自分の可能性を見せてもらいました。

 

 

私は、これを例えば企業の研修に私を呼んで活用してもらいたいです。

刑務所の受刑者に向けて、児童養護施設を出所した子たちに向けて

発達障害の方に向けて、役者やダンサー、ミュージシャンを目指す方に向けて

離婚を考えはじめてしまった夫婦に向けて、お年寄りに向けて

入試や就職の面接を受ける方に向けて

 

いくらでもありますね。

内に沈む自分を見つけにいくダンスは

その後のコミュニケーションに油をさすようなものです。

自分を知って、表現をして認識すること。

開放する感覚を知ること。

 

これって、頭で分かるのと体感するのでは

雲泥の差があります。

はぁはぁ!と分かった気になるかと思いますが

それはたぶん、エロ本を夢中で読む中学生が

大人の愛し合い方を知らないレベルに匹敵します。

要はファンタジーではなくリアルになるんです。

 

例えがなぜ中二男子の気持ちになってみたのか謎ですが笑

 

だから、これをまずは体感しに来てください。

今度3/12、私が出演する舞台は観客がただの傍観者でいられない

興奮の渦にまきこまれるパフォーマンスをしますので

 

ただの阿波踊り!ただのダンス!と思って来ないでくださいね!

 

あなたにカラダと心があるなら、来て体感した方がいいですよ。

来なきゃ損しますよ。

また、どうせ、そのうち舞台やるんでしょ!?って思うかもしれないけど

舞台は生ものなので、その日その瞬間でしか絶対に味わえないんです。

その日に高円寺に観にきてくださった人にしか味わえないんです。

 

youtubeで見るのとは全然違うものですからね。

 

チケットの購入はこちらから↓

http://takarabune.org/blog/?p=215

 

私は京都でやったダンスパーティを東京でもう一歩進化させて

また開催するつもりでいます。

その際は生演奏でセッションを考えています。

 

熱い想いがある方ぜひ参加お待ちしております!!

 

好きの盲点

 

 

好きなこと、やりたいことの盲点。

それは「好きなことをしてる俺!」に素晴らしい幻想を抱いてしまって、それをしない自分は想像できず、そんな自分を否定しているといつの間にか義務になってしまっているということ。

 

私はダンスをいつやめてもいいと思っている。

 

私は5歳のころからバレエ一筋。自分がプロのダンサーになると信じて疑わなかった。その為にはなんでもした。私を育てるのにかかるお金をできる限りバレエに使ってほしいと両親に頼んだ。服とか学校のジャージでいいし。塾も行かないし。そして、努力に努力を重ねそこそこまで昇りつめた自分を今も誇りに思っている。ダンスしか生き甲斐がないとその時は思っていて、それがない人生なら終わっていいって思ったから、高校もやめた。たくさんの大人に言われた。「高校も出ていないと、人生に潰しがきかない」「そんなに頭がいいのに、道を自ら断つなんてバカじゃないのか」って。なら、それまでの人生だからそんな保険いらないと、私は言った。

 

しかし、その数年後、そこまでの大事なダンスをバレエをばっさり捨てたんだ。百足を越えるトゥシューズをゴミ箱に捨てて、レオタードを捨てて、私の人生からダンスという文字を消した。そして、新たな道を模索した。私のまわりにいる人も、私が「ロイヤルバレエ団に通るくらいのダンサー」だと言うことを知る人はいなくなった。そしたら、意外にもとっても楽になった。

 

ダンスがなくても「あたしはあたしらしく生きられるんだ」と言うこと知った。ダンスに焼き殺されそうだったから。駆り立てられ、突き動かされ、いつしか私はダンスに操られ止まることを許されなくなっていた。それをスッパリと20代で捨てられたことはよかった。強みがないと弱い自分を愛せないのは辛いね。若いうちにそれをするのは、たぶん今までで5位内に入るくらい勇気がいった。

 

そして、今は踊っている。ダンスを捨ててから、記憶がとぶくらい泥酔すると私は踊っていたらしい。そしてダンスがどれくらい好きか語っていたらしい。そんな風に、居酒屋で話す自分も可愛らしいなと思った。なら、やってみようかと思った。

 

他の誰のためでもなく、もちろん未来の自分や過去の自分のためでもなく、今の自分がやりたいことを。その瞬間を楽しむダンスができるようになった。だから、私はいつダンスをやめてもいいと思っている。

 


「好きなこと」という言葉はそれだけで、あまりにも美しい言葉なので幻想を抱きやすい。そして、まわりの人間もそれを応援してくれたりするから、自分が本当にやりたいことなのかっていうのを意外と見失いやすいと思うんだ。

 

結婚、家族、資格、恋人、成功、功績、賞賛…いわゆる「幸せ」と自他ともに受けとれることも、手にしてるとき、いつだって捨てられると思えたらそれは本物かな?と私は思います。幸せも不幸も、いつだって自分のなかで自分の物差しで受けとめたい。

 

捨てたら入ってくるなんて言うけど、何も保証がないから怖いんだよね。それを取ったら自分に何が残るんだろうって。手にするまでの過程が長くて濃ければなおさら。でも、それがなくなっても私は変わらないと思えるまでは痛みを伴います。そればかりは避けられないけれども、次のステージに行きたいと願うなら。人生は一度きり。

 

私がそういう覚悟をもつのは、好きなことも好きな人にも義務ではなく幻想でもなく、心から向き合いたいから。純粋に好きと言いたいから。

 

陽があたらなくても水に飢えてても咲きたいのかどうか

 

 

不自由であればあるほど実は人は能力を発揮する。でも、待ってー!、その前に大きな分かれ道がある。不自由を言い訳にするか、糧にするか??ここは真価が問われるよ??

 

昨日の記事(バレエのポジショニングから学ぶ、写真の『ベスト綺麗ポジション』で書いた、カラダに線を思い描く話。私はこの線を針のように細い鉄が刺さっているような意識があったりする。だから、バレエには制約があるんだ。秩序のある中で自分をひきだせた時の快感は半端なものじゃない。目に見える動きを越えて、想いが呼吸となって表れるとき、私は自分でも惚れ惚れとしてしまう。

 

場所や時間やお金を言い訳にしている人は一度味わってみたらいい。その制約を越えてでも、自由を勝ち取った自分を。

 

私は「でも、それでも」という言葉が好き。大人なら何かをやるかやらないか決めるときには、「リターン」「リスク」「条件」「メリット」「デメリット」を考えてから行動に移すよね?「でも、それでも」と言って決めたときは肚をくくったときだから。中途半端でなくて、その先の失敗や最悪の状況さえも甘んじて受け入れる覚悟をもったときに出る言葉だと思うんだ。言い訳はしないという覚悟。

「でも、それでも」と制約を越えていく生き方がバレエと共通していたのかもしれない。バレエは体操じゃないからね。秩序を保った正しさだけじゃダメなの。その先を魅せるからバレエがバレエたるものになり、芸術になる。

 

 

 

不自由な条件で言い訳してもってる能力を発揮できない人に欠けているものは、「考えること」。何がどう不自由で、その抜け道はあるのか。でも、それを考えないのは要は「考えてまでなんとしてでもやろう」とそこまで思ってないから。なのに、「やらない」という決断もしない。潔さって信用に直結すると思うんだよね。だって、自分にもだましだましウソついている人が他人の約束を守るとは思えない。その信用は自分への信用でもあるんだ。自信ってそういうこと。

 

ガチガチに制約のある中で踊るんだけども、その先にすごーくゆるくて温かい自由を魅せられる踊りがバレエなんだよね。でも、私はダンスのすべてが好きで、たまたま自分が一番とりくんだ期間が長く濃かったのがバレエだから人に教えられるのはバレエだけども…HIPHOPもいいよ!!あれはね、とにかく自由な踊りで逆に制約がなくて、その中に制約への憤りを表現して、同時に本当の自由をも表現するんだと私は思う。ルーツがそうだから。

 

「俺たちはこんなに自由に踊れるのに、何で社会はこんなに不自由なんだ!」っていうエネルギーの吐きどころなさから生まれたものだから。言い方を変えれば「社会は不自由だけれども、俺たちは本当の自由を知り踊れる」という喜びでもある。バレエは逆で、貴族の娯楽だから「何でもある、取り囲む世界は自由なのにこの心はどこか不自由」こちらも言い方を変えると「私たちは秩序の中で踊るけれど、本当の自由を知り踊れる」私の解釈だけど。

 

私たちは何をもとめ何をするんだろう??

踊るにあたり、ステップの決まりやスポットの付け方、音の取り方、本当に自由に与えられすぎて何をしていいかわからなくてとても不自由に感じてしまうのかな?すべてが自由なんだよ。だから踊れない。

 

先に「考えること」が足りないと私は言ったけれども、その前に何を求め何がしたくて何がしたくないのか、それはなぜ?っていう心の底から湧き上がる感情にフタをしてしまっていると、考える議題がまずあがってこないよね。その必要性もないし。自分の自由との戦いなのかもね。だから、私は制限や条件、リスクを喜んで引き受ける。それも私に与えられた大事な選択の要素だから。

 

そこを熟知した上で、私はそれでも越えていくと決められる情熱があるのかどうか、私は私を試しているんだと思う。

 

 

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満足しておわり?それはただの傍観者かもしれない。〜かさこ塾祭りへ行ってみて〜

 

 

 すごいこと、すごい人に出逢って満足しただけでおわるのは、とっても惜しくてもったいないと私は思う。

 

すごい人に出逢ってぐるんと見えてるものが変わるんだけれども、自分自身はその時点では変わった気がしちゃってるだけ。結局は傍観者のままでいては何の変化もない。時間がたてば、いつもの日常にもどってしまうのは、このチャンスをものにできていないから。

 

チャンスをものにするって、どういうことなんだろう?

 

やっぱり、「すごい」って手放しで喜んでいる場合じゃなくて自分のものにしたい。私は「スゴい人」に出逢っても、まず全肯定というか、尊敬をしない。そこには自分なりの考えや思いに自信があるから…けど自分の自信なんて、本当すごければすごい人に会うほど打ち砕かれるものだよね。砕かれて砕かれて、でもそれでも残るものに目を向けて信じられたときにチャンスをものにできるんだと思うんだ。

 

自信を砕かれたところで、最初から自信なんか無かった振りをしていると、他人にもいい顔しかできないし、自分にもいい顔ばっかりして、大事なことを見失っていく。一人ではいられなくなり、突然の虚しさに襲われたりする。

 


 

 かさこ塾祭りで、正直困惑してしまうほど「大瀧冬佳」の名が知れててビビった。それから私が、すごいな〜と思ってた方々に力強い言葉とお墨付きをいただいて帰りの電車の中まではそれに酔っていた。グワンって私の世界をさらに勢いをつけて回してくれた。まるで駒みたいに、その勢いに気持ちよくなりすぎて軸でなく外側に意識を持ってかれると間もなく回転は止まってしまう。

 

 もう、どんなにすごい人が現れても、えげつないくらいに「私は私」でいいと思う。

 それやってると現れる人がえげつないくらいにすごい人になっていく。

 

 私は「すごい」と思ったとしても結局は自分を見ていきたい。

対、その「すごい人」との比較から始まるんじゃなくて、そのもっと深い衝撃を素直にうけた自分をみていきたい。そこから始めていくのが最も近い成長で、出逢った意味だと思うんだ。「すごいなぁ」で自分の舞台からおりて傍観者になっているのは、自分に失礼であり「すごい人」にも失礼。舞台に立ち続けた人こそが「すごい人」になっているから。

 

そんな「すごい人」が現れても自分の舞台に立ち続けるのは、そんなに楽じゃないよ。ゾワゾワと比較がはじまり、でもその比較を手放していかに自分の軸に戻ってこられるかって一歩行動を起こす以上に飛び込む勇気がいるけれど、それでもそれをやる。それをすると本当のプライドがみえてくる。人と比較しないとわからない自分のスゴさなんかいらない。いつ、何時、どんな場所にいても、自分が自分でいられるプライドが強さだよね。それって、辛い状況にいる時だけじゃないんだよ。胸高鳴る人に出逢っても人の舞台の観客になって舞台にたたない自分を傍観することなく。

 

 

で、最後に、それができないのは物事を深刻に考えすぎなんだと思った。やったもん勝ち。やって失敗しちゃったもん勝ち。自惚れちゃっても、全力で自惚れてるならいつかめっちゃ恥ずかしいことなんだなって気付かせてくれる人に出逢う。中途半端に何かをおそれて自分を守っていると、そういうチャンスを逃す。

 

「すごい人」に出逢ったなら、愚直に1の成功の方法を聞いて学んだ気になってるんでなく、私なら100の失敗する方法をやって学んでみる。そしたら、1の成功の方法が100の失敗しない方法により確かな自分のものになるからね。少なくとも私はそれくらい遠回りしてやってみないと、「すごい人」の言ってる意味がその場では理解できない人だから。わかった気、できる気とかいらない。

 

 揺るがない本物が欲しい。

 

 

さて、あなたは「すごい人」を前に傍観者で居続けますか?目の前に起こった出来事をどう捉え自分のものにしていきますか?自分で徹底的に考え自分なりの答えを出してみよう!!

 

 

 

 

 

 

 


 

レッスン情報

12/19(土)

10:15~11:15「FUYUKAヨガ」

11:15~12:15「はじめてのバレエ」

@吉祥寺 アムリタスタジオノースB1

お申込みはこちら→12/19「FUYUKAヨガ」「はじめてのバレエ」

 

来年の日程

1/30

2/9

2/20

詳細はおってお知らせ致します。

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本物の「師」に出逢えることで人生は決定する

 

 

 

道を指し示し、貫く人

そう滅多にはいない

 

 

そういう人に出逢ったことがありますか?

 

あたしは、細かく人生を切り取ってみれば

過酷で不幸な人生にも見えてしまうかもしれない。

 

でも全くもってそう思ってないし

むしろかなりの強運をもっていて

幸福な人生を歩んでいると思っている。

これが本音。

 

 

なぜかというと、

私は本物の「師」に出逢えたから。

その教えは今も心の奥深くにずっとある。

私の人生は「師」に出逢ったことではじまり。

その感謝からはじめなければならない。

 

 

 

人が一生のうちに「師」に出逢えるって言うのは

本当に奇跡のようなことだと思う。

出逢えぬまま死んでいく人の方が多いかもしれない。

有難い、有るのが難しいと書くからね。

 

 

 

 

 

 

私のバレエの恩師は

「ガラスの仮面」に登場する黒婦人

「月影千草」にそっくりだった。

 

若い頃はすっーーーーーごいダンサーで。

日本にバレエを広めた人。

 

そして、とてつもなく厳格な先生だった。

とってもとっても怖かった。

あんなに怖くて厳しい人にあったことがない。

一芸を極めるってやっぱりとても厳しいことなの。

並大抵の根性ではやっていけない。

 

 

今の私があるのはその先生のおかげ。

私は先生の弟子として高校を中退しバレエ一筋にしぼった。

実質、15歳の段階で将来を決めた。

 

 

 

 

一本ビシッと筋の通った人、

絶対にぶれることはなく

強く気高く美しかった。

自分にあれだけ厳しいから

生徒にも厳しくできるし

そして絶対的な説得力をもっている。

圧倒的に突き抜けていて、

そこにいるだけで有無を言わせない迫力と存在感がある。

先生が教室に入ってきただけで

空気がピンと張りつめる。

山頂みたいに冷たく研ぎ澄まされたような空気に一変する

 

あの緊張感は舞台にたつよりも

はるかに怖いものだった。

でも、それを越えて踊るの、

ベストパフォーマンスをすると心に誓って。

 

 

 

 


 

本物の「先生」は自分が偉いとかスゴイとかって押し付けずとも

こちら側から土下座してでも人生かけてでも教えを乞いてしまうもの。

 

そして「先生」のようになりたいとは思わせてくれない。

気付かされるんだ、

「あぁ、私は私なんだ」って。

 

 

褒めてはくれなかった。

でも、認めてくれているっていう自信が湧いてくるんだよね、

怒られて、汗と涙と鼻水まき散らしながら踊ってても笑

 

 

「ばかふゆかっーーーー!!!」って怒鳴られて

で、怖いとか辛いじゃなくて

本当にできない自分に

無償に腹が立ち、悔しくて悔しくて

 

フラフラで足のまめはつぶれて

体ももう動かなくなっちゃって

踊りたいのに、

ついてこない体が嫌になって涙が出ちゃうんだよね。

その涙にさえ腹が立つ。

なんで涙が止まらないのか。

 

 

唯一褒められたのは

「ふゆかには、踊り心がある」

という言葉だけ。

 

褒められたらおしまいだと思ってた。

もう期待をされていないってこと。

 

 

技術も身体条件も決してよくはなく

毎秒挫折している私だけども

この言葉がいつも心の支え。

 

 


私は先生から、

「人としてどうあるべきか」

「本当の美しさとは」

「本当の強さとは」

をバレエをとおして教わった。

 

今も私の中で息づいていている大切な財産。

誰も私から奪うことはできない大切なもの。

 

 

こんな幸せなことはないよね。

私は本当に運がいい人間だから

こんな経験ができたけれども

 

そんな「師」と思えるものは

きっと「本」や「映画」、「音楽」「舞台」にも

うまっていると思う。

 

その裏に人の息づかいが見えて

何かを強く訴えかけてくるものって存在するから。

 

 

ぜひ、みなさまも「師」について考えてみてください。

あなたの胸に今も息づく「師」の言葉はありますか?


 

12/19 「FUYUKAヨガ」「はじめてのバレエ」@吉祥寺 残席(ヨガ5名バレエ1名)

 

 

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誰もが自分のクリエイター

 

 

1冊の本、1本の映画、1曲の音楽、1冊の漫画、1枚の絵、

あなたは心をゆさぶられ、

その先の人生の道筋をいともたやすく変えられてきたはず

一つ一つの数多の創作物の影響で

唯一無二のあなたの感性は作り上げられてきただろう

 

それこそ、あなたも創作物の一つのように自己を作り上げてきた

 

 

 

 

ダンスをはじめ、あらゆる創作物は物語をはらんでる

だから人の心を打ち、多くの人の心を震わせる

 

 

 

 

単に人生の足りないものを満たすだけの何かではない

飢えを癒し、渇きを潤すのみにとどまらず

人をその先の境地へと連れていってくれるものと思う

 

 

 

 

触れて心を豊かにしてくれる創作物として

ダンスとの関わりが増えてくれるのも嬉しいし

 

あなたがあなたにしかできない表現は確実に存在して

誰かをその先に連れていくという

ダンスとの関わりもステキだ。

 

 

 

だからね〜、もっとたくさん教えたい!!

私の知っている「ダンス」について

 

 

もっとわかりやすく提示できる術はないかと模索中です。

 

 

 

 

踊るときに身にしみるんだけど

大胆不敵なわりに繊細で傷つきやすい自分とか

優しすぎて厳しすぎる自分とか

自由奔放で自分勝手な自分とか

 

ふだん取り繕っていても

素っ裸で現れてしまう。

 

 

で、それを全部、そんな歪な自分をぶつけていくんだ。

決して誰もまん丸なツルツルな心なんて持っていない。

むしろ、その歪みこそがその人がその人である愛しきところなんじゃないかな?

 
歪な自分を自分で肯定できる場所が作品の中にある
 

それが、例えば小さなバレエ教室の中で

週に1回でもできたら綺麗に美しく生きられるはず

 

 

 

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マイナスな感情をもってもそれは仕方ないこと、さてそれをどうしますか?

 

 

やりきれない想いとか
悔しい想いとか

 

 

 

そりゃあ、ものすごくあった。

 

 

楽しそうにぬくぬくと何不自由なく生きているくせに
「死にたい」だの「最悪」だの愚痴や不満ばっかり
いいやがって!!!

 

 

私だって!私だって!て涙目になって。
こんな世知辛い世の中、不平等すぎて降参してしまいたい

 

 

ってそういう、あたしももちろんいたんです。

 

 

その気持ちをもつことはいけないとか
だってそう思っちゃったんだから仕方ないじゃない?

 

 

蓋していい子ぶるのは何も解決しないし
辛いだけ、自分を追いつめるだけだよね。

 

 

感覚が麻痺していくだけで
悪いことにも麻痺してやりすごせるようになるけれど
いいことにも、当たり前の幸せにも気付けなくなってしまう。

 

 

 

どんどんどんどん洞穴に入っていってしまうよね。

 

 

私はそういう黒い気持ち全部ダンスで発散させてた。

 

 

 

「こんちくしょー!!!」って。
恨み辛み妬み…全部ぶつけてた。

 

 

 

 

それが結果よかったんだなと今は思う。

 

 

感情のデトックスでした。
毒出し。

 

 

 

 

毒でパンパンになった心の中には
どんな人徳のある方のいいお言葉も
入っていく余裕がないからね。

 

 

 

 

変われないのよ。

なーんも響かない、むしろムカつく。

 

 

 

 

 

 

もう、にっちもさっちも行かないって思い込んじゃっているから
毒でいっぱいのあたしの吐く息吐く言葉、全部が有害。

 

 

 

そういう、いいお言葉をかける人って身近にもたくさんいるけれど
私があってきた中で、毒出しを請け負ってくれる人は少なかった。

 

 

 

毒まみれの、もうそれは病気なんだと思うんだけど
生半可なお人好しには近づけないところまで行っちゃてる人への
「気付き」をあたえるきっかけの場をつくりたいのが私です。

 

 

 

 

厳しいけれど、殻やぶってでてくるのは
自分にしかできないですよね。

 

 

 

 

私はそれをダンスに教えてもらった訳で
だから、自分のことも素直に好きでいられる。
あんなに真っ黒な心をもっていたのに
気が付いたら氷が溶けるようになくなっていた。

 

 

 

それから、
ダンスを介して殻やぶれた私は
頼れる他人にもたくさん出逢うことができた。

 

 

 

あとは
この経験を誰かのために使うことが出来たら私はとても嬉しい。

 

 

 

 

そんな精神論だけじゃなくて
体を動かすことや
音楽にも変化を起こす力があったということを
私は後に学び知りました。

 

 

 

私の実体験に科学的根拠を裏付けていく
これは私だからできることだと思ってます。

 

そのストレッチ意味ありますか?

 

 

いきなり動くと怪我するから

入念なストレッチをしなきゃ!!!!

 

 

これ、経験上、誤解を恐れずに言えば

かえってケガを招きます。

 

 

ソースもございますので

これは事実です。

 

 

わたくし大瀧冬佳は…

今回「はじめてのバレエ」

と言うことで、初心者の

しかも、

カラダを動かすことから

大分離れている方のカラダを

預からせていただきます。

 

 

ダンサーでさえ誤解しがちな

正しい柔軟の仕方もレクチャーします。

 

 

カラダが柔らかいというのは

どういうことなのか??

 

 

パフォーマンスとして

180度に開脚ができれば

それでいいのか??

 

 

そうではありませんよね?

関節の可動域が広がり

そしてその可動域いっぱいに

自分で使えなければ意味ないです。

 

 

骨に一番近い筋肉、インナーマッスルが

その動きをサポートできるようにならなければ

例え180度に開くようになっても

支えるサポーターが弱ければ

着地の時などにケガをします。

 

プリエが弱くなり踏ん張りがきかないんです。

 

私も長年こうした事態に陥っていたので

ストレッチの仕方をよく工夫してみたり

他の業種の方に聞いたり

文献を読んだり…いろいろしました。

私自身はものすごくカラダが柔らかいです。

でも、それが活かせる時と

活かさない時があるのが

不思議だったんです。

 

柔軟とは本来

凝り固まったインナーマッスルを

柔らかくほぐしてあげることです。

強くしなやかに使える状態にするためです。

 

 

 

いかがですか?

単純に考えて

ゴムのような性質の筋肉を

カラダがまだ活動してない冷えた状態で

力を加えて伸ばしたらどうなるでしょう?

 

 

プツプツと切れたり、

伸びきって収縮が弱くなりそうな

イメージはわきますか??

(主にハムストリングや内ももの筋肉、ふくらはぎの筋肉が硬くグっと守りに入るようにロックされてしまう感覚が私にはよくありました)

 

外からの力を加えて伸ばすのでなく、

内からその筋肉自体が

収縮、伸張をくりかえして

ストレッチをした方が

目的にたいしてベクトルが

あってる気がしませんか?

 

 

 

これはまだ私も研究途中なのですが

もしかしたら骨が先に動いて

筋肉はそれに付随して収縮しているのでは?

と言うことを探求しています。

 

 

科学的に今のところそうしたソースは

見つかっていないのですが

(少なくとも私の手の届く範囲では)

カラダを使っていると

もはやそうとしか思えないのです。

 

 

筋肉は収縮、縮むということしか

できることがありません。

伸張、伸びるというのは反対側にある

筋肉が収縮するために起こる現象です。

 

 

こう考えると、

対になって機能しなければ

そのバランスが崩れるのは

容易に想像がつきますね。

 

 

 

ですから、バランスが崩れて

姿勢が悪くなったり、骨盤が歪んだり

肩コリ、腰痛、頭痛といったことが

一つの要因として起こります。

 

 

 

ダンスの中でもバレエは

その前後左右全て対照にバランスよく

カラダを使うために

ダンスの基礎といわれているのです。

 

 

この型にハマったバレエを息苦しく感じる

他ジャンルのダンサーも多いですが…

一流のバレエダンサーを生で目にすると

音楽がそこに生きてるかのような錯覚に

陥るほどの表現力があります…

 

ジャズ、コンテンポラリー、フィギュアスケート、シンクロ、演劇、社交ダンス、宝塚、ミュージカル…などなどバレエは基礎として行われてます。

 

 

あらら、ストレッチの話から大幅に

話がそれてしまいました…。

 

 

私、好きなことの話をすると

止まらなくなる傾向があるようですね笑

 

 

つまり!伝えたかったことは

 

 

基礎のバレエの

そのまた基礎のストレッチ!

をどうか誤解せず

ケガせずダンスライフを

長く続けられるカラダを

わたくし大瀧冬佳は一緒に作りますよ!

というお話でした。

(無理やりまとめた感が否めませんが笑)

プリエは始まりと終わり

 

こちらをご覧頂きたい!!→トゥの運びを視覚化できるアプリの紹介動画

 

 

 

この筆の圧がウワッと重くなっているところがプリエ。

 

バーレッスン プリエ fuyuka

このプリエはステップの始まりと終わりにつかう。

フランス語で「曲げる」という意味で、

バレエでは膝をまげることを言います。

 

半分くらいの浅いのを「ドゥミ・プリエ」

一番深くまでのを「グラン・プリエ」といい

 

 

 

バレエのお稽古では必ずバーレッスンの最初にこの「プリエ」をします。

 

 

体重を感じさせないためには地面に吸収させることなんですよ。

そのクッションを膝をとおして地面に流す。

 

ジャンプや回転のエネルギーも地面からの反発を利用して

ふわっと体に流してあとは力を抜いていく。

 

 

 

これは、文字として捉えるより

実際に私の空気を感じて隣で躍って体感してほしい!!って思っちゃいます。

 

 

そんなすぐに、うお!!これか!!!って分からないかもしれないし。

この感覚をもしかしたら才能といわれるのかもしれない。

 

 

 

でも、自然の中から、誰かの魂を込めた作品から

子供から…目に写るものすべて、耳に届く音すべてから

息づかいを感じられます。

 

 

あなたの心臓の鼓動….そうしたものにヒントが散りばめられていて

その息づかいを自分の中に再現するんです。

 

 

どうしよもない怒りを感じたときの胸の音でもいいし

悲しく沈んだ心の波でもいいし

 

ワクワクしてどうしようもない衝動でもいいし

 

「プリエ」から物事が動き出して展開していくんです。

テクニックとしての「プリエ」の解説でもよかったんですが

今回はちょっとどうして「プリエ」って0だからわくわくするじゃない?

というお話を書いてみました。

 

 

最初の第一歩を踏み出す瞬間のステップが「プリエ」です^^

 

 

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